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なぜアクセルを踏ませないのか?
ブラームスop73第4楽章が集約的なallegro con spiritoであることはこの作品の性格の把握して無視できない問題だということ前回の記事に書いた通り。4つの小節が機動の単位となって回転していく。
さて、この楽章の終結への過程はベートヴェンop125のそれと似ていてとても集約的、かつ整理された造りになっている。ベートーヴェンの場合、最後のprestissimoは4つの小節を分母にした5拍子で圧倒的な高揚の中で終わるようにできている。
ブラームスの場合も、105小節目から4つの小節を分母にした6拍子で回転して、圧倒的なフィナーレを飾っていく。この4拍子のコンパスの回転の元、24小節間が一つ大きなまとまりとして集約的に作られているところは、先のベートーヴェンop125のの終結部を彷彿とさせるものがある。多くの演奏が「お約束」のようにこの終結部でアクセルを踏みたくなるのも、この高揚の道のりをみると生理的にそうしてしまうのはわからないでもない。
この6拍子の、劇場的なフィナーレの圧巻だけを見ればそれはわからなくもない。
だが、楽譜にテンポ操作の記述がないのは、op68やop98と比較してみても、明らかにそこには設定上の理由なのではないだろうか。
つまり、テンポを無理に上げていかなくても、作品の構成力で終結部を築き上げているという自負がそこにあるのを感じるのだ。
それは375小節目あたりからの圧縮的な造りに理由がある。
まず、ここからは2つの小節を分母とした6拍子と5拍子と4拍子のリレーがある。分母の縮小は、これまで4つの小節を分母としてきた推進性に対する明らかな抵抗値である。この2つの小節を分母とする音楽は第2主題由来の設定である。ここで、一回踏み込んで、じっくりと力を蓄積していく、集積の過程がある。この第2主題的抵抗値が387小節目で解放されたように一瞬感じるが、楽譜は手綱を緩めない。推進性よりも手堅い構築を優先する。ただし、今度は5拍子拍節となるので、そのサイクルは短くなっている。397小節目に至っても、さらに解放を許さない。しかし、それでも4拍子拍節となるので、少しづつ解放度は高まっている。
その圧縮的な語り口を、ようやく405小節目で解放する。これまで、ずっと抑え込んできた2つの小節という圧縮分母を、4つの小節の分母に切り替えるだけで、十分な解放力を感じさせることができる。
だから、ここまで、作ってきた圧倒的な構築の見事さを、軽薄なアッチェレランドで壊すのは野暮なのではないだろうか。むしろ作品の構成力に共感的でなくてはならないのではないだろうか。それはベートーヴェンop125ではあえてprestissimoという指定を出したのとは対照的なものだと理解するべきなのだ。
もう一つ加えているなら、作品は初めから、allegro con spiritoであることを忘れてはならない。本来、集約的な音楽を楽譜は示している。それをずっと無視した「2つ執り」演奏がここで手のひらを返したようにテンポを上げるのは、まるで楽譜が読めていない証ではないか、とさえ思うのだ。
そこは設計のない軽い作品と同等に扱ってはならないのだ。