歓喜の主題を歌い出す前に
ベートーヴェンop55第1楽章128小節目からの4小節間のヘミオラを、カラヤンなどの20世紀の中盤くらいまでの指揮者は、2分音符の6拍子にして振っている。そのせいで133小節目に入るときに不自然さがあった。
大学時代に勉強していた演奏解釈に関わる楽書の中でその著者の先生が、「だからここには間を空けるのが良い」などと書いておられた。
時代を感じるが、それが、20世紀の定番的な解釈だったのだろう。
今となってはそれを一笑に付すことが出来る。
だが、そういうヘミオラを便利に読み替えることが、他では合理的な事例と成り得ることもたまにはあることに気がついた。
ベートーヴェンop125第4楽章でのことだ。
いよいよあの歓喜の主題が始まるallegro assaiだが、その直前まで続くレシタティーヴォ風の3/4拍子のフレーズとの間には休符もフェルマータも無い。つまり、ここではいきなり3拍子から4拍子への転換が行われる、というのが、楽譜の設定だ。
だが、これを実行するのは難しい。そもそも、何のきっかけも無しにallegro assai を歌い出すのでは「音並べ」しか出来ないだろう。
この作品全体を見て、このような非現場的な設定は、あまりに突飛だ。多くの場合、どんな場面転換でも現場が混乱しないようになっていたからだ。
自分にとって、ここが謎だった。
だが、楽譜を冷静に見直して見る、ちゃんと対処が出来るように書かれているのだ。
allegro assai の前の2つの小節を連結し、3/2として読むことだ。つまり、タクトは2分音符分となる。こうすることによって、この2つの小節内の3つの2分音符を1+2で捉えるとallegro assai のきっかけが作れる。
だが、その前にこのレシタティーヴォ風フレーズがテンポを保てているからの方が問題なのだが。
8小節目から始まるこのレシタティーヴォ風はテンポを落とさないで、というのが、楽譜の設定だ。ここを後期ロマン派的な楽劇的なタッチで描いてしまうのは、楽譜からの逸脱だ。それが演奏伝統の積み重ねの結果だとしても、それは楽譜とは関係ない。むしろレコード文化が広めた悪習だ。
この導入部やレシタティーヴォを読み解く鍵は、実は「運命動機」のあの形だ。3/4Prestoの小節のなかの6つの8分音符を、2つの3連符が占めているという捉え方をすると摑みやすい。この鍵は、冒頭のそのけたたましい音楽の中でさえも、金管楽器によって強調されている。楽譜は受け手にヒントを与えているのだ。
そして、このけたたましいPrestoの余波が7小節目に落下したインパクトからレシタティーヴォ風のそのアウフタクトが立ち上がる。このレシタティーヴォ風フレーズが立ち上がる部分もその間も余計な間はない。リズムの呼吸として、これらは繋がれているからだ。そして、そのレシタティーヴォ風のフレーズも運命動機の形に結びつくように動いている。
リズム的にといえば、このレシタティーヴォ風は、あまりにオペラ歌唱風に流されているところが問題だ。むしろ長い音符に重心をかけず、短めに処理する。そうすることによって、その動機の形を中心にする動きを明確にさせる。テンポを変えずに、という楽譜の意図が分かる気がするのだ。
楽劇的な視野を一度捨てて、楽譜から、まず、音楽的に読み取ろうとしないと、この悪習から卒業することは出来ないのだ。