見出し画像

小さなクライマックスに光を当てられるか

昨日書いたように音楽は音の羅列に秩序を与えている。秩序があるから論理足り得る。秩序、論理性がなければ、音は無制限に拡大していくだけである。そういうアブストラクトと一般にいう音楽は立場が違う。

聴いた印象だけで、それを整理もしないで演奏するのは「よい子の合奏」でしかない。その音をどんなに、美しく並べても、アンサンブルの精緻を極めても、秩序の整理ができていない演奏ではそこに音響と音合わせゲームのパフォーマンスしかない。

クリスマスでおなじみの「そりすべり」でも、前奏のまとめの4小節間の四分音符たちの秩序を考えていない演奏と、メロディとの整合性を考えて四分音符のグルービングができている場合とでは、聴いた印象の鮮やかさがまるで違う。無秩序な演奏では単なる音の連続にしかならない。とても平板な結果になる。

ベートーヴェンop125第2楽章はvivace設定であり、2つの小節の上下縦方向の運動性が対になってその基本単位を成している。その基本構成を踏まえなければ、例えば43小節目からの10数小節間の過程はまさにアブストラクトになってしまう。もちろん、作品がしっかりしているから、鳴らせば音楽にはなる。だが、整理されている演奏のような登り坂の昂揚感は希薄になるだろう。その構成が見えてもいないのに、クレシェンドを要求する指揮者も酷いものだ。あの八甲田山の行軍命令のようなものだ。

この第2楽章の道のりは入り組んでいて感覚だけでは乗り切れない。平板になってしまうことが多いのはそのためだ。

2つの小節が分母となるこの主題は、その6拍子から始まる。それが4拍子、5拍子、3拍子、6拍子、5拍子、5拍子…と目まぐるしく変容していく。特の3拍子+6拍子の登り坂を越えたところに5拍子拍節をぶち込むあたりが、小さなクライマックスでもある。この言葉遊び的な語呂の面白さは演奏者、特に指揮パートのや「運び」に負うところが大きい。

その変幻自在さが面白さなのだ。だが、その掘り下げを怠ってしまうと、そのカレイドスコープの回転のような変化の極みの鮮やかさがまるで生きてこないのだ。それは作品から見ると残念なことだ。

「そりすべり」の例もそうなのだが、作品を甘く見てはならないのだ。鳴らせばいい、弾ければいいで終わるのではなく、どう読めば、どうグルーピングすれば、より面白く伝わるのかを探る姿勢が必要なのだ。聴いた記憶のうわなぞりだけは一番よくないのだ。

いいなと思ったら応援しよう!