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4分音符から音楽を考えるのではなく、音楽からその4分音符を見る

ハンガリー舞曲第1番の指揮パートを担当するとき、その開始の時点で7小節目が見えていないなら失敗する。 次のフレーズが見えていないのに最初のフレーズは歌えないからだ。

 

楽譜にビブラートをかけることを書いてあることのは注目できる。けれど、それも流れる音楽の上での表現であって、音符にではない。ブラームスの渋い音色に浸っているようでは演奏にはならない。音楽にはならない。その音がどんなに美しくてもだ。

最初の6小節間が、せめて次にどうつながるか、が見えていないなら最低限の論理は分かっていない、ことになるからだ。音楽は流れであって、流れである以上、起点があって帰着点がある。その2点間が分からないならば音楽は流れない。音の羅列でしかない。テンポは外からの押しつけになるか、20世紀によく見られたようにテンポ自体をあきらめてしまうかになる。


さて、この音楽は6つの小節が単位となっているのは分かる。だが、5小節め、6小節めがつながれていることは大きなヒントになる。つまり、この音楽は2つの小節を分母としている。つまり、この6小節は2つの小節を分母とする3拍子でできている。


さらに、この大きな3拍子のフレーズが単位となってどういう形を作っているかが見えていないと、この音楽のテンポ感が分からない。この曲の場合、このフレーズが単位となって、大きな4拍子を形成しているのだ。ここまでが見えると、ようやく、この大きな4拍子をどう聞かせるのかの問題となる。ここでようやく、音楽の望むテンポ感が見えて来るのだ。ここでベースのpizzの弾き方がわかる。

指揮がアンサンブルの先に立っているためには、このような筋道が分かっている必要があるのだ。楽譜の音符だけを見ていると、そのベースのpizzにとらわれて、四分音符でテンポを考えてしまう。だが、ここまで全体像が見えて初めてその4分音符が音楽にどう使われているのかがわかる。4分音符から考えるから音楽のテンポが見えないのだ。

ブラームスop73第2楽章に入るのが難しいのも、起点と帰着点とが見えにくいからだ。0小節目にあるはずの、書かれていない1,2,3拍が、フレーズ全体の呼吸の中に入っていなければ、このフレーズは歌えないし、これが12小節目に落ち着くことが見えないから難しいのだ。

アウフタクトの4分音符だけをみても、最初のフレーズの断片だけ見ても、音楽は見えないし、テンポも見えないだろう。

指揮パートが見えていなければならないのは、積分的なその先への道のり。音に執着すると音楽は見えなくなる。


指揮パートは、この大きな4拍子の形を操って、各パートを先導して、その行先を誘導する。その仕事はまさに、流れる水が溢れ出さないように、適格な水路を先に作っていく作業だ。かえるのうたの四分音符を一つ一つ叩いて合わせさせる学芸会のせんせいの指揮とは意味が違う。


実は、このような先観ができないと、最初の6小節さえまとめることができない。小節で指揮ができないと感覚的な歌い方では無意識のうちに小節の4拍子に陥ってしまう。そのような指揮パートでは水路から水を溢れさせてしまう。



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