そこで終わるか、次に繋げるか
ベートーヴェンop125の第3楽章の結尾は、例えば同じくop68のような、深く安定した帰着はしない。というよりもその先に帰着を求めるような終わり方をする。
これは楽譜を見れば明らかだ。だが、伝統的な演奏スタイルはそこを読み替えている。全てが収まったような安心感に満たされる。これは明らかに楽譜にあるような半端さとは違う。まさに読み替え、改変に近い。作品の全体像が見えなかったからなのかもしれない。楽譜の結び方では感覚的に満たされないからだ。
だが、この交響曲の全体の構成から考えれば、この終止が次に来るべきものものと、呼吸として、結ばれていることが見えて来る。
安定的な終止は、必ず拍節の「1拍め」に帰着点を持つ。それは先日話題にしたベートーヴェンop67とブラームスop68の終止法の違いの問題で書いたとおりだ。ベートーヴェンop68の場合も、2つの小節を分母にした大きな3拍子の末に帰着する。
だが、このop125の第3楽章の場合はそうではない。この結尾は小節の中で終わっているからだ。そして、この音楽を、最後の3つの小節で締めくくることは生理的に無理だ。普通ならあと1小節必要である。その枠組みから1歩ふみだしたところに帰着点を持つからだ。最終音は書かれていない次の小節に呼吸上の帰着点を目指して動きは続く。
生理的には、そのような浮いた状態では満足できない。必ずどこかに帰着点を求める。書かれていない次の小節が必要なのだ。
ブラームスop68や73の終止方法もそれと同じだ。鉛直方向に投げ上げた状態の最終音はフェルマータで保持されるが、それは書かれていない仮説の次の小節に帰着する。そうやって生理的に満足させる結論に至る。
このベートーヴェンop125の場合も、投げ上げられたボールはやがて下降し、次の小節へと落下する。
だが、この楽章の場合、その落下点は同時に新たな始まりであり、新しい動きの起点となっているように見える。
つまり、それは第4楽章開始のきっかけとなるのだ。
第3楽章のこの終わらせ方は、第4楽章を導き出すために必要な過程である。そして、それ故に、この2つの楽章は呼吸として結ばれていると考えている。
「書かれていない次の小節」は第4楽章の0小節目にあたる。その小節への落下のインパクトによって、第4楽章のアウフタクトが導き出され、4つの小節による2拍子によるprestoが立ち上がり、その帰着点が稲妻のようなレチタティーヴォを奮い立たせる。ここには現実的、物理的な運動による緊迫感に満ちている。オペラ劇場のような作り上げた興奮ではなく、締め上げられるような現実の運動が、この場面を作っている。
この両者の間隔は音楽的にはこのような呼吸で結ばれている。さらに、第3楽章の末尾の音型である。その運命動機は第4楽章導入部を構成する大事な要素である。例えば、Prestoのトランペットがそれを表している。第2の打楽器パートでもあるこのパートにこの音型を吹かせているのも興味深い。当時のトランペットの性能云々よりも、わざわざこの音型を強調させることのほう興味がある。また、レチタティーヴォ風の稲妻もこの音型が要素になっている。これらは第3楽章の結びの詞の 「こだま」なのだ。そう見做すとこの両楽章が互いに結びつきを持っている姿が見えてくる。
この両者の間は、もちろん現場の空気感や、あるいは現場的諸事情により、物理的に開くかもしれない。だが、演奏者は、この楽譜の求めている繋がりを忘れてはならないのだ。第4楽章の開始は決して未知のものではない。来たるべきものが来た。そう感じさせられなければ、作品の狙いは実現できないのだ。