叩くのではなく空間を用意する
音を並べる。それと音楽演奏は違う。例えばこのベートーヴェンop125第3楽章におけるファンファーレ風のフレーズだ。楽譜に書いてある音価音高を正確に並べたところで、それだけではそれらを束ねるものがない。音楽と音響の違いはここにある。音だけではそれを律するものがない。つまり、それは単独に存在する現象でしかない。その単独の音響に魂やら意味を込めたり、探したりしようとするから話は面倒なことになる。そういう2次創作が演奏の目的ではない。むしろ、そういう行為は邪道なのだ。楽譜から作品を掘り起こして蘇らせることが目的でなくてはならない。
さて、このファンファーレ風フレーズだが、その骨格は小節を分母にした3拍子でできている。そして、次の1拍目で解放されように歌われる。この
構造を把握するにあたって、見失ってはならないのは、そのフレーズの開始の2つの16分音符の位置だ。ここを次の小節に付随する装飾的アウフタクトと取ってしまうと、このフレーズの立体的なバランスが崩れてしまう。音を並べるだけの平面的な結果しか実現できない。この最初の2つの16分音符はその小節の運動によって誘い出される。つまり、この小節に先入したときには深く踏み込まなければならない。その2つの16分音符に直接触れず、運動の一環で誘い出さねばならない。つまり、この小節自体を起点にしなければ動かせない。
音たちを律するためには、このような小節の運動の起点と帰着点を見通していなければならないのだ。
この大きな3拍子の上にそのフレーズが乗っている。この3拍子の骨格を指揮することでこれらの音たちは一つの方向性に向かってまとまっていくのだ。
この3拍子を付点四分音符単位で呼吸してしまうと音響中心になってしまう。このファンファーレフレーズに1stvnだけが立ち向かっていくのだが、その動きを振ってしまったら、やはり骨格は狂ってしまう。この1stvnの反抗も、直接叩くのではなく 、その空間を準備して誘い出すのだ。開始の16分音符も、この1stvnも空間が先に用意されているから鳴らすことができる。
指揮は、その出す音を叩くのではない。その音を誘い、導き出すために、絶えず先入して筋道を用意していく役割なのだ。
この場面を体験するたびに、指揮という行為自体が何であるのかを再発見する。