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論理としてのドラマを演奏する

フルトヴェングラーは即興的にテンポを変えると言われているが、その場の気分というわけではないようだ。彼の有名な第九のいくつかの録音でも、およそ同じ箇所でテンポが変わっていく。思いつきなのではなく、そこにはその指揮者なりの研究の顕れがあるのではないだろうか。
特徴的なのは第1楽章終盤の427小節めあたりからの急激な加速だ。信じられないくらいに加速されていく。彼の演奏はテンポが遅いなどと言われているが、それはミクロ的な視野でしかないことが分かる。この人にとってのテンポとは、作品全体をひとつのドラマとして見通してのそれである。例えば楽曲の開始がモヤモヤしているのは、気分がのらないとか、手探りをしているのではない。ドラマとしての考えられた演出なのだ。

2次元的な、あるいは点の立場の視野にいる者が、このような3次元的な、動的な世界観で演奏しているものを批評するには無理がある。速いとか遅いとかの問題ではなく、部分的な比較論でもなく、作品そのものを観た目からではないと、こういう演奏の批評など意味がない。好きか嫌いかでしかない問題をことさら、大げさに感性の問題とか、伝記的な背景の反映とかいう妄想を期待することには無理がある。そして、それはフェアではない。そんなに言うなら後は自分でやればいいのだ。

さて、それはともかくとして、この427小節目からテンポが堰を切ったかのように加速されていく表現は作品の呼吸とマッチしているのは確かだ。ここにこの作品を読み解くヒントがある。

この第1楽章は4段階のテンポ要素がある。一つは冒頭に典型的な小節を分母としたテンポ。そして36小節目あたりから見られる2つの小節を分母とする呼吸。さらには、その427小節目からの展開に見られるような4つの小節を分母とする推進力に富んだテンポである。そしてそこから、6つの小節を分母とするフレーズまでに発展する。これらの3つのテンポ感の交代は全て提示部にあるのだ。

前者の2つは、古典的な意味での緩急対比のそれである。それは前回話題にした通りだ。そして、さらにこの第1楽章では、その「急」に2つの段階がさらに存在しているのだ。このあたりにシューマンのようなロマン派的な昂揚が見られる。

さて、その4つの小節を分母とする推進力のある曲調は、427小節目以降にだけ現れているわけではない。実はこれは第2主題の骨格に由来している。79小節目からの展開は4つの小節を分母とする大きな6拍子のラインに乗って、流れるように歌われていく。これは鋭角的な第1主題とは明確に差別化されている。

面白いのは、この流動性に富んだ第2主題の歌われ方は108小節目に設置されているダンパーによって、あっさり方向転換をさせられることだ。このダンパーによって、音楽は再び2つの小節を分母とする主部のテンポ感戻される。この処理は見事だ。この第2主題のやや速めの呼吸が用意されていることからも、この楽章の幅の広さを感じさせられる。

音符で見ていると、楽譜の88というテンポ感は速いと思われがちだ。だが、フレーズやメロディの形から見てみると、それが速すぎるとはとても思えない。スケッチの一部にはより速い数値が見られるらしい。しかし、この4段階のテンポ移動を考えるとあながち不適切とはいえないように、僕には感じる。最終的にはそれくらいのテンポによる昂揚がここにはあるからだ。

音響を聴くのか、音楽という論理としてのドラマを聞くのか。その問題に行き着くのだ。

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