見えないsfzとvivaceたる理由
ベートーヴェンop125の第2楽章molto
vivaceの冒頭の楽譜を見ていると、休符は「休み」というよりも、ある種の吸引力を持っているように見える。例えば1小節めは2小節めの引力に対抗するように屹立していなければならない。高くジャンプして逃げようとしても、まるで休符小節に強力なゴムで固定されているように、地面に叩きつけられる。まさにmolto vivaceの運動そのものがここに見られる。
音は発しないこの小節は、しかし、強烈なステップを要求している「見えないsfz」を感じさせる。
この楽章を「allegro読み」してしまうと、この休符小節の緊迫感は発揮されない。結果としては1小節目も単なる強い発音にしかならない。
楽譜を読むとは、こういう立体感を捉えることなのだ。音高と長さを持って数えるだけでは終わらないのだ。
この1小節目と2小節目との上向きと下向きのベクトルの関係を見ていると、op92の第1楽章第1主題の最初の2つの小節もallegro読みではバランスを間違えてしまっていることに気がつく。なぜvivaceなのか、に無頓着であってはならないのだ。感覚レベルでは、両者のベクトルの捉え方を逆にしてしまっているのだ。そこに付点リズムの誤りの原因もあるのかもしれない。
op125の第2楽章も、冒頭4小節間の「見えないsfz」によって、偶数小節にアクセントがあることが強制される。この「後打ちリズム」がこの主題の把握には必要だ。推進力よりも上下運動の躍動が強調されるのだ。それこそがvivaceたる理由なのだから。