【2024読了No.8】國分功一郎著『暇と退屈の倫理学』(新潮文庫)読了。
私は書名を見たとき、「暇と退屈なときこそ倫理学をかじろう」という「倫理学のススメ」的な内容だろうと思って手に取った。
だが、この書の内容はそんな能天気なものではなかった。真っ正面からの「暇と退屈」をテーマとした人類史と研究史についての考察であった。
まずは著者は哲学者なので、「暇と退屈」を主要テーマとした哲学史を著述した第一章「暇と退屈の原理論-ウサギ狩に行く人は本当は何が欲しいのか-」が一番面白かった。当然、ウサギ🐇そのもののハズ無いだろっ‼️…ということをパスカルが述べている。これがニーチェになるともっと過激になり、人間は退屈に耐えられないから、魂を奮い立たせる興奮を求め、そのためには苦しみさえも厭わない、それどころか積極的に苦?しみを求めることすらあるのだとしいる。
ここまで読んで、
「おぉっナチズム、キター(゚∀゚)」
と思った通り、そこでレオ・シュトラウスのナチズムの批判の内容が来た。
そして、後に反ナチズム活動家として知られるバートランド・ラッセルと、逆にナチズムに急接近するマルティン・ハイデッカーの「退屈論」の意外な一致について述べている。
私は予備校の日本史の講師なので、ナチズムや日本の戦前の軍国主義などの歴史にとても関心がある。また、第二次安倍内閣成立後に急激に(特に男子)生徒が右傾化等していくことを肌感覚で感じ、危機感を募らせていた。
そんな私が思わず膝を叩いたのが、ラッセルの以下の言葉。
「ひと言で言えば、退屈の反対は快楽ではなく興奮である」
興奮できればいい。それが自分にとって苦痛をもたらすものであっても、平穏過ぎる日常に退屈することに比べればましなのである。
これはとても危険な状態である。
こういう興奮を求める心情こそが、ユダヤ人が世界征服を目指しているといった陰謀論への飛び付きや、「ハイル・ヒトラー」と皆とともに叫ぶときの一体感、はたまた「祖国のために」という使命感で身を投じる特攻隊への憧れに繋がるのであるから。
第二章は「暇と退屈の系譜学」。人類はいつから退屈し始めたのか?とい疑問から始まる。筆者は縄文時代に開始される“定住”をその出発点とする。ここでは西田正規氏の提唱する「定住革命」という仮説に則った考察がされている。だが、西田説は山川出版社の最新の教科書(日本史探究)には全く採用されていない。これについては西田氏の著書が発表されて以降の縄文時代の一般書を読んでからではないと何とも言えない。
第三章のフォード社の生産様式の問題点の指摘と「保安部」の存在には戦慄が走った。
第四章の映画「ファイト・クラブ」の話もナチズムと全く関係ない話のようで、ナチズムに取り込まれる民衆の心理を違う形で表していて興味深かった。
私にとって最も分かり辛かったのが第五~七章に書かれたハイデッカーが掲げる退屈の三つの形式と、それに対する作者の考察だった。
その点、私にとっては、先述のラッセルの言葉の方がピンとくる。
「教育は以前、多分に楽しむ能力を訓練することだと考えられていた」
楽しむことは決して易しくない🤔。
例えば、私は自分の犬とサッカー⚽やフリスビー🥏等色んな遊びを楽しめるが、それは私が犬の本や訓練士のYouTubeを参照したりして、「楽しむ能力を訓練」してきたからである。
どの本でも、どの訓練士でも言うことは同じ。犬をトラブルなく飼うには、基本の躾と犬と遊んでやることだとが大切だと。
それなのに、犬と遊ぶ飼い主の子供っぽい動きが可笑しいと感じるのか?嘲笑を伴いながら私と犬とのサッカー⚽を眺めたり盗撮したりする人達がいる。
その間、彼らの犬は飼い主の横に黙ってほっとかれている。
そういう人の一人が対抗してボールで遊び始めたが、「楽しむ能力を訓練」していない犬はボールを持ち帰らないし、「楽しむ能力を訓練」していない飼い主は体力が続かない(私は一方で卓球🏓選手としてトレーニングを積んできたから体力がある)。
結局、その人ができる「楽しみ」は、フリスビーの練習ができる場所に我々より先に入り、日没までそこに犬(←秋田犬だからね❗怖いよ😖と居座り続け、私達の練習を妨害することだけである。
「暇と退屈」についての倫理学の書だったが、こういう「暇と退屈」をもて余して嫌がらせやイジメに走る人の考察は全然なかった。それが私には物足りなかった。
その上、ハイデッカーの退屈の三形式を批判的に継承した著者の結論は私には何か腑に落ちなかった。
「退屈の第一形式と第三形式のサーキット」は自分を鍛えるのに有効じゃないか?何がいけないんだよ?と。
(結論はネタバレだから書かない)
しかし、しかーしである。増補新版以降にのみ足された「付録 傷と運命」の注釈に書かれたある書物とそのコメントを読んだとき、私は思わず「あっ」と叫んでしまった。早速アマゾンでその本を注文して(当日に来てくれた)、その本の索引から「これだ❗」と思った部分を拾って読んだ瞬間、自分がなぜ國分氏の主張を素直に受け入れられなかったことを理解した。
一流の学者の本は注釈が充実していてエビデンスが明確である。そして、更なる読書を促してくれる。それを痛感した読書体験であった。