【2024読了.No47】鴻上尚史著『君はどう生きるか』(講談社)読了
当然のことだが、吉野源三郎著『君たちはどう生きるか』を充分意識した題である。
違いは「君たちは」が「君は」になっている所。多様化する今の時代において、「君たち」と一括りにできないという意識からこのような題になっている。
さて、作者同様、10代の頃の私にとって、「本当に役に立つアドバイスをしてくれる大人」はいなかったし、まれにアドバイスしてくれる「大人は意見を押しつけてくるだけの存在」だった。
私の語るストーリーや夢や展望は、常に否定されてきた。高2のきの担任は、小学生のころから工学部志望だった私に、「体育学部に行け」といい、部活を引退して苦手の文系科目(世界史、古文)が良くなったら、今度は「文系が向いている」と言い、結局文系に追い込まれてしまった。
その結果、私は何をしたかったのか?
何を幸せと感じていたのか?
が、分からなくなっていった。
「知識をたくさん身につければ身につけるほど、君はいろんな角度からものを考えられるようになる。 それは、君を間違いなく助けてくれる。」
作者の言う通りで、頑張って勉強してきたから、私は複眼的視野には自信があった。生徒にも歴史を学ぶ意義として、常日頃似たようなことを言ってきた。
でも、毒親に常に
「人(要は「親」)の話を聞きなさい!」
「(いじめられるのは)人の気持ちを考えないお前が悪い!」
と、従順さと敏感さを強要され、反論することに罪悪感さえ覚えるようになってしまった私には、この複眼視的視野はかえって仇になった。考え過ぎて空回りし、ますます自分自身の本当の気持ちが分からなくなっていった。
「『コミュニケーションが得意』とは、だれとでも仲よくなれることだと一般的には思われています。でも、『コミュニケーションが得意』とは、相手ともめてしまったとき、それでも、なんとかやっていける能力があるということです。」
私にとって「コミュニケーションが得意」とは、相手に合わせられることだった。でも、そうではなく、作者の言う通り「相手ともめてしまったとき、それでも、なんとかやっていける能力があるということ」という、かなり高度な技術なのだと分かったのは、家を購入するときの税務署の確定申告の相談窓口だった。確定申告の相談窓口は2月中はかなり空いている。私の主張を税理士さんと税務署の職員さんがしっかり聞いてくれて、解決策を出して貰えた。
あのとき、「道理が分かる大人」という存在に初めて出会ったのである。
私がそれまで作者の言う高度なコミュニケーション能力を発揮できなかったのは、周りに「道理が分かる大人」がいなかっただけだと気づいた。それからは、父母と伯母の三人分の成年後見人申請のための裁判所への訴状さえも、自分で書けるようになった。念のため行政書士の無料相談会に予約して添削だけして貰ったとき、この行政書士さんの言葉が私にかなりの自信を与えてくれた。
「と…とても、良く書けてます」と。
いくら、高いコミュニケーション能力を持っても、それはあくまでも「道理が分かる大人」相手にしか通用しない。
本書にもあったが、せっかくロンドンに来ながら、始終スマホを見てばかりで、「ロンドンはつまらない」と呟くような大人相手には通用しないのである。
作者もそういう人には何も言わない。(しっかりと著書のネタにはしてるけど😅)
「道理が分かる」人ならともかく、そうではない者をまともに相手にしないということも、立派なコミュニケーション能力である。
そこまで割り切れるなら、複眼的視野は生かせるだろう。多様な視点を得るためには、中学高校で行われる「たったひとつの正解」のある勉強ををすることは有効である。
でも、いつも意識して忘れてはいけないのは、「人は『(自分が)幸せになる』ために生きている」ということなのだ。私の若い頃のように、相手の気持ちに敏感になりすぎて、自分の幸せを後回しにしがちだと、複眼視的視野は仇になる。
私の幸せは何だろうか?
作者は言う。
「周りから頼られて、君じゃなきゃダメだと言われたり、誰かを助けて感謝されたりすること? うん。それは大きな幸せだね。」
それはやはり私にとっては予備校講師という仕事だろう。
なりたいと強く願ってなった仕事ではなかった。単なる大学院生のバイトでしかなかったが、誠実に取り組むうちに、いつの間にか自分にとって最も大きな幸せになっていたようだ。
ここで、また自分探しとかしてさ迷うより、今のまま誠実に仕事に取り組みたい。
そんな生き方だって、充分幸せだと思う。かつては仇になった複眼的視野も、この仕事ではとても生かせるしね😁