ヨルシカのブレーメンについて考えたこと

ヨルシカさんのブレーメンの歌詞やMVについて考察しました。

ブレーメンMVの歩く映像から、『月を歩いている』のクロスフェードを連想しました。
月を歩いているは童話モチーフのアルバムで、この曲もブレーメンの音楽隊がモチーフなので、
それぞれの物語がある=それぞれの歩みがある って事かなと。


「身体は無彩色 レイドバック」の無彩色は、死装束や喪服と思えます。
「心を貸して」とあり、身体から心が抜けて無彩色になったと。
『左右盲』ではルビーやサファイアなど鮮やかな物を心としていますし。
無彩色な身体は「鉛の心臓」かなと。

レイドバック(laid back)はロック調の曲がゆったりしている事らしく、この曲自体(ブレーメン)も当てはまりそうです。

laidがlay(横たわる、埋葬する)の過去形なのもあって、無彩色がお葬式っぽく思えます。
「この音に今は乗ろうよ」は、お坊さんのお経に乗ってるのかなと。

音的にlaidはrain(雨)に掛かってる気がします。
歌詞が「ただうねる雨音でグルーヴ」と続くので。

「うねる雨音でグルーヴ」は雨音の不規則な感じに乗ってる気がします。
ヨルシカでは生楽器によるグルーヴにこだわっていると、n-bunaさんは亀田誠治さんとの対談で語っていますし。

「無彩色」をモノクロ映像、「うねる雨音」をフィルムノイズや古い音声のノイズとすると
昔のジャズなどの演奏映像を指しているように思います。

「身体は無彩色」ですが、心は有彩色かもしれません。
映像はモノクロでも、昔のジャズプレイヤーの音(あるいは魂)はカラフルなのかなと。

「夜の隅っこ」「想い出の景色でバックパック」は、古いモノクロ映像の中を暮らしたり旅したりしてると。

「息を吸って早く吐いて」は壊れかけの古い記録媒体をふーふーして、なんとか再生してるようにも思いました。



夜の隅っこは、暗そうです。
「ずっと二人で暮らそうよ この夜の隅っこで」は、
暗そうな場所で暮らそう、というダジャレなのかなと。
隅っこで住みっこする、と取れます。

「この夜の隅っこで」の時にスニーカーが映るので、
すみっことスニーカーで、語呂を合わせてる気がします。

ブレーメンは町の名前なので、ヨルシカのブレーメン「まるで僕らはブレーメン」は 僕ら=町 という主張にも取れます。
その後の「たった二人だけのマーチ」=たった二人だけの町 と思えます。
「ずっと二人で暮らそうよ」とありますし。

「たった二人だけのマーチ」は、『パレード』の「一人ぼっちのパレード」を連想しました。


「想い出の景色でバックパック」のバックパックは、登山っぽいワードです。
盲目だから想い出の景色しか見えない、と解釈すると
MVの、点字ブロックを歩く登山っぽい装備の人に繋がります。

「精々歌っていようぜ」の精々は say say でもある気がします。「息を吸って 声に出して」に続く歌詞ですし。

「三番は飛ばしていいよ」で、映像のハイヒールの人も跳ぶのが素敵です。


「心を貸して」は、モチーフという形で過去の文学作品(ブレーメンの音楽隊)を借りてる、
作品に込められた心を、歌詞に貸してもらってるって事かなと。
偶には三番も聴いてほしくて「心を貸して今日くらいは」とも感じます。


「不甲斐ない僕らでいいよ」
=歩がいない僕らでいいよ とすると、
歩かなくていい(前進せずにその場で踊ってていい)
歩という味方のいない「二人だけのマーチ」でいい
歩のない将棋、負け将棋でいい と取れます。



「僕」は死者、「君」は生者だと思いました。
「まだ時間が惜しいの?」は死者と生者の時間感覚の違い。
「死ぬほどのことはこの世に無いぜ」は、死者(僕)の実感ある言葉。
「愛の歌を歌ってんのさ あっはっはっは」は、死者が生者に歌っても届かないのにね、という自虐の笑い。
「心を貸して」は、耳を貸して、僕(死者)の声を聞いてって事かなと。

ブレーメンMVを踏まえると、左右盲は生者(左向き)と死者(右向き)の区別が付かなくなる事にも思えます。

さよならは「左様なら」とも書くので、
左右盲、右と左が分からなくなる事は、さよならかどうか分からないって事かなと。
ブレーメンMVの左から歩いてくる人は、この世と「左様なら」した人、という。
left(左)はleave(離れる)の過去形leftと同じスペルですし。



石を蹴る穴の空いたスニーカーの人は元サッカー少年なのかなと思います。
MVの「死ぬほどのことはこの世に無いぜ」でサッカーボールが映るのは、
怪我か何かでサッカーを辞めたとしても、死ぬほどのことじゃない、生きていこうぜ、って事に思いました。

MVの2分25秒で煙草らしき物が落ちます。
石を蹴る穴の空いたスニーカーの人はサッカーを辞め、やさぐれて喫煙したのかなと。
そう思うと、直後の歌詞「笑われてるのも仕方がないね」が切ないなと。
煙草の火で、靴に穴が空いたのでしょうか。


ブレーメンは無礼men、無礼な人達って意味もある気がします。
煙草のポイ捨てはマナー違反でしょうし、
盗作おじさんも、行儀の良い生き方はしていないので。

「身体は無彩色」を踏まえると、ブレーメンはグレーメン(灰色の人達)とも思えます。
MV2分25秒のタバコのポイ捨ては、グレるに掛けてるのかなと。
「ずっと二人で暮らそうよ この夜の隅っこで」とあるので、夕暮れの暮れとグレーを掛けてるかもしれません。
グレーゾーン、夜の隅っこ、生と死の境界線にいる人達な気がします。


人間(にんげん)と逃げ(にげ)は、音が似ています。
人間の社会から逃げ出し動物になったから「まるで僕らはブレーメン」なのかなと。
『ブレーメンの音楽隊』の動物達は、人間社会から逃げ出します。
人としての礼儀を捨て、無礼men、動物になったのかなと。

求愛で鳴く動物はいるので、動物も愛の歌を歌うのでしょう。
人間には、動物の声は大体同じように聞こえます。
動物の歌だから「同じような歌詞だし三番は飛ばしていいよ」なのかなと。

「馬鹿を装う」は、馬や鹿など動物の振りをするって事かなと。
MV最後にスニーカーの人は四本足の動物になります。装いではない馬鹿になれたのかもしれません。

動物が(身体の構造的に)笑えない事を思うと、
「笑うかいお前もどうだい」が切なく聴こえます。

MVの最初と最後に四本足の動物が出て来るので、最初と最後が繋がり輪になっていると思えます。
輪廻転生をイメージしてるのかなと。

人が動物になるのは、
『負け犬にアンコールはいらない』の『前世』(曲)で書かれた、人間だった頃を思い出す動物を連想しました。


藍二乗をiの2乗(マイナス1)とすると、進む方向を180度変える(マイナス1倍する)と取れて、
ブレーメンMVのエイミーは君が引かれてマイナス1になり、左向き(生の向き)から右向き(死の向き)になったのかなと思います。

ブレーメンMVの(3分前後の)ぽっくり下駄の人を盗作おじさんの妻とすると、
場所が駅のホームっぽいのは、
盗作おじさんが駅前で、妻が顔を出す事を期待してたからかなと(盗作小説142ページ)。
盗作おじさんの目には見えずとも、霊になった妻は顔を出していたのかもしれません。

ぽっくり下駄を履いているのは、妻がぽっくり逝ってしまった、突然亡くなった事を表してるのかなと。
ぽっくり下駄の桜のマークが、春泥棒を連想させます。

「春風の騒めきでグルーヴ」は『風を食む』の「風のない春に騒めく」を連想します。
風のあるブレーメンは体の騒めき、
風のない『風を食む』は心の騒めきだと思いました。

「心を貸して」でぽっくり下駄の人が爪先立ちするので、『思想犯』の「爪先立つ」(妻先立つ)が連想されます。
「心を貸して」「そのうちわかり合おうぜ」は、
『思想犯』の「他人に優しいあんたにこの心がわかるものか」への返答と思えます。
落ちている吸い殻は、思想犯MVの煙草でしょうか。

「心を貸して」でぽっくり下駄の人が爪先立った時、立ち止まった人にキスした(あるいは愛の歌を聴かせた)とすると、
愛を与えた、虚数iを与えたと取れます。
虚数iを掛けると、複素平面上で反時計回りに90度回転するので、
画面奥を見ている人にiを掛けると、左を向きます。
立ち止まってる=「死にたくないが生きられない」(思想犯)という他の方の考察を踏まえると、
立ち止まった、生でも死でもない方を向いた盗作おじさんに、前(生の方)を向かせたのかなと思いました。

以上です。
お読みいただきありがとうございました。