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カルチュラル・スタディーズとしての映画『ジョーカー』(2019)再考――アーサーと私たちが共有する「感情労働」の疲れ

はじめに

 意図せず、本稿は2024年の10月31日のハロウィーン当日に投稿された。思い思いのフィクションを身にまとった人々が群衆となり渋谷の街を埋める例年のカオスを、インバウンド人口の高まりの影響を受けて過熱させないために、今日も渋谷駅前には警察車両が構えている。

自分が望むイメージをその身に投影させ、非日常の熱気をまとって街を楽しむ日本独特のカルチャーの中、今から4年前、『ジョーカー』(2019)公開から2年のタイミングであの事件は起きてしまった。この論を展開するにあたり、人々とフィクションの文化が共存するにあたって、命を脅かす一切の危害が今後生まれないことを切に祈る。

(以上、10/31 追記。以下、本稿。)

今月の10月11日(金)に『ジョーカー』(2019)の続編となる『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』が全国公開された。公開に先立っての広告で強調されたのは「賛否両論」「世紀のショー」といった文言で、この期待に応えるような感想がSNSで流れてくる。あのジョーカーがどうなるのか、約5年前に生じた波紋が今になってその活きを取り戻している。

本稿は今作の主人公であり観る者の相応の目当てであろう、アーサー・フレック/ジョーカーという人物の物語について、彼は何者か, その身に何が起きたのか, 前作を観た私たちはどのような影響と理解を与えたのかについての小論考です。「小」と付けつつ各ブロックごとの内容も手短にしたつもりですが、それでも短いとは言えない分量になってしまっているので申し訳ない…。ちまちまと章を追って読んで頂けたらと思う限りです。

主眼はアーサー・フレックに置き、彼がどうしてジョーカーになってしまったかの要因を再度探りつつ、観る者である私たちが彼に向けて抱える「共感」の所在はどこにあるのかを考察しています。最後には、日本という社会背景・文化を背景として「アーサーから生まれたジョーカー」に向けるべき私たちからの眼差しを、作品の認識論として展開します。

文章中に劇中のシーンや議論のコンテクストとなる楽曲を引用しているので、文字への飽きを問わず参照しながら読むと、なお分かりやすくなるかと思います。

キーワード:共感、生きづらさ、感情労働、職能、ピエロ、高揚、自己実現、投影、アイドル、救世主、隣人


1. 未だかつてないジョーカー像

 本作が描く特徴の一つはそれまでの映画シリーズで明かされてこなかったジョーカー誕生の物語であり、彼は道化師を生業とする男アーサー・フレックとして語られる。作中でアーサーがジョーカーに変貌する場面は印象的なメイクシーンや同僚ランドルの殺害シーンでビビットに描かれており、それに至る物語を見れば変身の理由が分かる(気がする)だろう。

こう思わされるのは、作品で描かれる顛末に至るアーサーを前に、観る者が相応にして彼に共感するからである。彼の「生きづらさ」は劇中で多面的かつ容赦ないタッチで描かれる。後天的な脳の障害による笑いの発作や独り身で母を養う生活、外から理解を得られずに夢を追いかける姿など、共感するポイントは人それぞれだが、本稿では労働者としての側面にフォーカスしてみる。

前述の通り、アーサーは派遣会社《HA HA プロダクション》に雇用される道化師として働いており、”カーニバル” の名で出向く先の人々を楽しませている。この職に就いた動機は作中で明かされていないが、母ペニーの「あなたは周りの人を笑顔にさせる」発言から察するに、アーサーはその言われを真に受けたものと考えられる(妄想疾患のペニーにアーサーの顔がよく「笑顔」に見えているに過ぎないため、実際の表情は無視した発言)。

道化師の仕事は道行く人やパーティー会場の人々向けのパフォーマンスを通じて客からのウケを取ることであり、さながら日本のお笑い芸人に近い職業柄と言える。しかし、道化師と芸人を分かつのは、タロットカードの「愚者」の柄が道化師を示しているように、彼らは指を指されて笑われる役回りが基本で、いじられキャラ・おどけ役に徹したウケを取ることが主なスタンスである。

They don't care as long as there is a jester, just a fool
(彼らは道化師がいても気にしない、ただの愚か者なだけ)
As foolish as he can be
(彼はできるだけバカみたいに振る舞う)
There's always a joker, that's the rule
(ジョーカーはいつもいる、それがルール)
But fate deals the hand that I see
(それでも運命は目に見える手札を私に配る)

The Joker - Lady Gaga

日本で見られる芸人は、時たまオーディエンスとのやり取りでイジり返したり、ネタ中で風刺を採用する一定の能動性を備えている。しかしビートたけしの師匠深見千三郎が言ったとされる「笑われているのではなく、笑わせている」スタンス自体をあざ笑うかの如く、彼らピエロはただただ笑われることに徹するのである。

道化師の職能をさらに詳しく言えば、彼らは客とのやり取りに際しては非言語コミュニケーションを中心とする、つまり言葉による意思疎通を行わない。これは近代ヨーロッパにおける歴史的背景によるもので、文化作品による体制批判を恐れたフランス政府による劇中セリフの禁止に遡るそう。そのために彼らは表情を強調したり、大きな身振り手振りや音が鳴る小道具をよく用いるのである。

 『ジョーカー』作中ではアーサーがピエロであることを理由に不当な暴力に遭ったり蔑まれる場面がたびたび描かれており、ゴッサムという汚れた街で彼らの職業性は簡単に暴力を引き寄せてしまうことを示している。依頼者に貸し出された看板を若造たちに奪われた末に暴漢に見舞われる冒頭シーン。街の日々のフラストレーションをぶつけるように彼らはアーサーをオモチャ扱いする。可笑しな靴を履いているせいか、追いかける道中で足を滑らせてしまうアーサーの姿は滑稽に映り、殴打された後にチョロチョロと水を流す花のブローチさえも彼が用意した「ボケ」のギミックに見える。

また、作中には表舞台で喋る本業のピエロは出てこない。小児科病棟での営業時にアーサーは「幸せなら手をたたこう」に合わせた踊りをするが、実際には歌っておらず、足踏みや拍手で踊りを見せるのみである。彼が声を挙げたのは前述の冒頭シーンで被害を受けたり、病棟内で護衛様に携帯していた拳銃をうっかり落とした時といった緊急時のみで、半ば反射的に出てしまったものと思われ(そりゃあそう)、意図的にオーディエンスと言葉で関わりを持とうとしない。

 上述のピエロに与えられる役割を踏まえると、観客らから卑下されるような笑いや言葉をかけられても彼らは「やり返す」ことはできず、本心を堪えてただただ道化を演じて「やり過ごさ」ねばならない。こうした職業柄に加えて不運が度重なった結果、アーサーは疲弊し心を病んでしまったが、この展開は単なる不条理もしくは「そういう定め」だったと私たちは位置付けて良いのだろうか?ましてや、ゴッサムに住む弱者ゆえに当然な報いとして受け入れざるを得ないのだろうか?

(人殺しは笑えることか、と聞かれて)
"そうさ。自分を偽るのは疲れた。"
と答えるアーサー

アーサーが持つ他のスティグマを度外視することはできないが、こうした日々の労働で受ける”仕打ち”のような精神的負荷はスクリーンを見つめる我々にも馴染みがある。むしろ我々とアーサーの間での共通項で共感しやすいものは、こうした仕事に関する「疲れ」を感じる場面での当事者性なのではないだろうか。

自分はただ職務を全うしているだけなのに。仕事をする時ベストは尽くそうとしているのに。社会は労働を介して私たちに我慢を求めてくる。「正直あの客の態度が気に入らない」「なんでいい面下げて対応しなきゃいけないの」でも、心の内は露わにできない。誰になんて言われて、何されるか分からないから。生きづらい。

そうした労働をめぐるスクリーンと現実の二重性にこそ、観る者をたやすくアーサー(ジョーカー)に共感させ、私たちが彼を「理解」したとさえ思わせるキャラクター性および映画の作品性があるのではないだろうか。

 そこで、『ジョーカー』という作品が持つ「共感の装置」がいかなるものか考察するのに、社会学における「感情労働」の概念を参照してみる。この視点から、架空のゴッサムという社会に生きるアーサーと現実の社会に生きる私たちを取り囲む共通の要因に注目し、フィクション/リアルを超えた(=両者で共有する)映画としてのメッセージを考えてみよう。


2. 感情労働の犠牲者:アーサー

 今の社会で私たちが働くとき、資質や労働力として何が提供されているだろうか。いわゆるブルーカラー(肉体労働中心)の人々は自身の「身体」を、ホワイトカラー(知的労働中心)の人々はその「頭脳」を主な労働資本として用いるとされているように、業種ごとに求められる資質はその専門性に応じて異なる。上のカテゴリに収められている「肉体」と「頭脳」の2つが従来の労働をめぐる議論において注目されてきた要素であり、一般的な社会通念としてもこれらは二項対立の枠組みで捉えられてきた。

しかし労働という概念は一概にして多様で複雑である以上、この2つのパラダイムのみで捉えきれるものではない。ましてや「流動化社会」と名指される現代社会では、急速に発達するメディア環境やグローバル化を背景に、労働の在り方は多岐にわたるため、その状況を汲んだ新たな視点が必要とされてきた。そうした議論において、肉体と頭脳を資本とする労働に加えられる第3の労働の概念であり、「心」をその資本として成立しているのが「感情労働」である。

2.1 感情労働とは?

「感情労働(emotional labor)」はアメリカの社会学者A. R. ホックシールドが『管理される心』(原著1983年)内で提唱した概念で、業務を遂行する上で一定の感情の管理が要求される労働の有り様を指す。これは一般的に飛行機内のCAやケアワーカーといった、職務の一環として客との対人コミュニケーションやケア的態度が要請される職種に見られるもので、ホックシールドの言葉では以下の要素が強調されている。

公的に観察可能な表情と
身体表現を作るために行う感情の管理

賃金と引き替えに売られ、
したがって<交換価値>を有する。

ホックシールド 2000: 7

つまり、他人に見える形で顔に出る表情を「適切」に演出するために感情がコントロールされ、"感情 : サービス" という交換の原理で、フィジカルにやり取りされる物財と同等に心も消費されるのである。そうした資本としての価値から、従来の労働資本(肉体・頭脳)に加えて心/感情も並べられるのだ。

 こうした新たなフィジカル性を持つ感情労働で必要とされる能力には、分けて「表層演技」「深層演技」の2つが挙げられている。いずれも我々に馴染みのある特徴として、労働現場での「演じる」作用を持つ。これらはホックシールドの言う「公的に観察可能な表情と身体表現」と心情の結びつきを制御する技能で、管理されるプロセスとその内容の面において両者は異なる。前者(表層演技)は本人が抱える感情が必ずしもその身振りとリンクしない、つまり「心で思っていること」に「実際に行っていること」が沿わずとも成立できる(心情と身体表現が分離できる)。

ジャルジャルによる「接客中めっちゃ笑顔やけど、ケーキ取る時めっちゃ真顔な奴」のコントは正しく表層演技の実践を表しているもので、福徳演じる店員は内心でダルいと思いながらも接客販売を成立させるため、満面の笑顔を客の前でのみ演出している。

だが、深層演技はシチュエーションに応じて求められる振る舞いを表出するために、自ら適切な感情を引き起こす(思い込む)。そのため、ある感情と行動を緩やかに接合した上で、それらを自然に引き起こす機序が設けられる。業務上気が乗らない振る舞いを成立させるために、変更可能な自分の感情の方をポジティブに変容させる、つまり適切な身振りのために適切な感情も演出するのである。

『プラダを着た悪魔』(2006) で自分よりも良い待遇を受けるアンドレアに対し、いらだちが抑えられないエミリーが2人での業務をこれからも円滑に進めるべく「自分の仕事が好き」と自分に言い聞かせるシーンから、表層演技で隠しきれない感情を塗りつぶすための方策として深層演技が採用されるのが分かる。
こうした表層演技と深層演技の違いは、適切な身体表現のために身振りだけを管理するのか、心も併せて管理するのかという点であると言える。

2.2 ピエロの心の労働

 以上の性質を踏まえてゴッサムに住む派遣道化師アーサーのケースに応じた検証する前に、ピエロの職能自体が内包しかねる感情労働のリスクを整理してみよう。

前章で確認したピエロの職能を検討していくと、まず「指を指されて笑われる」点が非常に感情労働の負荷が高いことが分かる。表層演技の視点に立つと分かりやすく、たとえ内面でゼロまたはマイナスな心持ちで働いていたとしても、外に見せる表情・素振りは強制的にプラスでなければならない。特に人が持つ尊厳にある程度干渉してくる「イジり」を受ける時は、規模は小さけれど生のスペクタクルで営業が行われるため、その感受は決して楽なだけでなく、当事者のコンプレックスと結びついていれば尚更ストレスフルになる。

自分を見世物として一方的に笑い捨てられる存在として位置づけ、笑いを演出する役回りに徹する上で、個人から湧き上がる消極的な感情は必要ない。ここから、深層演技の要領で業務上のエゴにあたる心情を呼び起こす「動機」が封じられる(内心で思わせる隙間を与えない)と考えられる。

沸き上がった感情を、
外部から要請される一定の感情に
”矯正”させられる部分に問題性がある

また非言語中心のコミュニケーションについて言えば、意味を伝達させる表現手段として言葉が与えられないことに感情労働の性質は必至となる。それはパフォーマンスでその場をどうにかして楽しませることがピエロにとってルール同然である以上、パフォーマーの人間には必然的に表層演技がまず要請され、口を出すことは空気を壊しかねないご法度として見なされるためである。

営業後の事務所への報告から依頼したオーディエンスにフィードバック、という流れで問題の処理は可能だとしても、現場で口を出せずに我慢することは避けらず、結局のところピエロ個人には我慢が求められる。つまりは感情労働によって心情を伝える「手段」が封じられるのだ。

心と体の齟齬を訴える手段を失う末に、その動機さえも潰えかねないリスクを負いつつも、それらが生活を支える労働の側面の一部として裏付けられている、という点は当事者目線としては不条理にさえ映るかもしれない。
ピエロが疲れる時、それはジャグリングやダンス、パントマイム、一輪車漕ぎといったフィジカルパフォーマンスによる疲労よりもむしろ、適切な感情と表現のコントロールを仕事として努める姿勢による影響が大きいことだろう。


3. ジョーカーに至る道化師の”心労”

 本章では『ジョーカー』劇中のシーンを引用しながら、2章で確認した感情労働の様相がスクリーンの中でどのように表象されているかを検証する。加えて、<アーサーに対する共感の集積 = 理解>が成立しない要因に、彼の身体特性が要求する「感情行為」のストレスを挙げながら、その対処がいかに発現するかも考察する。

3.1 作中で見せるアーサーの吐露

 本作のストーリーラインではアーサー(労働者)からジョーカー(逸脱者)への変移にグラデーションに見られるので、前者の性格がどの程度まで主体的かは私たちには分からない。よって、アーサーを取りまく外部の環境に注目するかたちで、本節ではクビを言い渡されて荷物と一緒に職場を去るシーンまでを労働者のフェーズとして捉え、各描写に注目していくものとする。

感情労働の一環でアーサーが表層演技を実践する描写として最も象徴的なのは、同僚のランドルから拳銃を受け取った後に経営責任者のホイト氏のもとへ向かうシーン。彼はホイト氏から、映画冒頭の一件で貸出の看板を無くしてしまったことの責任を詰められる。

むしろ被害者の側にいるはずのアーサーが問題の張本人として処罰の対象になるのはとばっちり以外の何物でもないので不満が生まれて当然だが、彼は”気前よく”表情を朗らかなままに叱責を聞き受ける。そうして乗り切った直後に、他人の目に晒されない裏路地で置かれたゴミを蹴りまくって鬱憤をぶつける。職場で求められる他人にとって適切な表情と、それ以外の場で発散する自分にとって適切な身体表現が印象的に対比されている一幕である。

次は小児病棟に営業で向かった時、ランドルから貰った護身用の拳銃をアーサーは踊った拍子に誤って落としてしまうシーン。この失態がきっかけとなり、彼はついに上司のホイト氏からクビを告げられてしまう。弁明を試みるも、ランドルがウソの告げ口をしたこと(アーサーが買おうとしたという旨)により信じてもらえず、やり場のない思いを抱えて頭突きで電話ボックスにヒビを入れる。

落下の瞬間に思わず声を上げたアーサーだが、少なくとも病院内ではピエロらしい表情と佇まいを保っている。ただその内面はというと、電話シーンに移ってすぐの表情から察するに、とにかく焦心に駆られている。この場面では強調する描写を避けつつも、焦りの感情をピエロの表情で塗りつぶして業務に徹しており、ピエロとしてその場を楽しませるマインドで平常心を保とうとしているのが伺える。

 以上の描写を見て分かるのは、アーサーはやはりピエロという感情労働者として各演技と実際の心情で生まれる隔たりを体感している点だろう。前者では労働時/外で異なった振る舞いを表層演技の要領で体現しており、上司相手に演じる内容は従順な部下で、実際は苛立ちで満ちている。
後者では不測の事態から取り乱すも、どうにかピエロとしての体裁を保とうとアーサーは努力する。本人が働くモチベーションとして「みんなをハッピーにさせたい」と口にする場面があることから、その動機で焦りを覆い隠すべく深層演技的にハッピーさを子供に向けて演出している素振りがこのシーンの最後に見受けられる。

3.2 アーサーの心と体の間の”歪み”

 アーサーは確かにピエロの職務を果たすべく感情労働に勤しみ、”演じる”ことでゴッサムでの日々をサバイブしてきた。観る者は彼の姿に毎日を生き延びる自分を投影することで容易く共感し、自らの労働性についても見つめることができることだろう。

 しかしここで我々は留意しなければいけない。アーサー(≒ジョーカー)は本稿冒頭で確認したとおり、理解可能な対象ではない。彼はあくまでも共感材料を多く持ち合わせているだけで、感情労働に関しても例外ではない。

なぜなら彼の感情と身体表現を結びつける機序(システム)には、機能的な「歪み」が媒介しているため、日常の生活空間で必ずしも適切な振る舞いを果たすことができない、つまり身体化された障壁が存在する。
それが緊張時に意思にかかわらず笑いを引き起こすアーサーの抱える脳の部分的損傷であり、彼はそれゆえに感情と身体表現を”適切に”協調させるのが難しいのである。失笑恐怖症をはじめとしたハンディキャップを抱えて本作を観る人々の共感強度が高くなるのは考えられるが、症状の程度や社会との関わりは個人で異なるため、彼らにもアーサーという人間は理解し得ない。

 だが、この歪みによってアーサーが仕事の場で苛むシーンは映画本編で実は一切なく、その障壁で苦しむのは大概にして私的空間でのみに限られている。上述の叱責シーンではそうした反応を示さないが、カウンセリング帰りのバスのシーンで子どもをあやして拒絶された時、発作が生じるような形で笑いが込み上がっている。

ホックシールドは、私的な空間における感情労働と同様の振る舞いを賃金が発生する場での感情労働と区別し、「感情管理(emotion management)」や「感情作業(emotion work)」と規定している。

「感情作業」と「感情管理」は,社会生活を送るにあたり不可欠なものであるため<使用価値>を有するが,個 人が任意で行う感情管理が労働場面で強制されることを,ホックシールドは「感情労働」と名付けたのである。

この感情管理は他人との円滑なコミュニケーションのために冠婚葬祭等の場で用いられ、ゴフマンが指す「面目」(自分に向けられる他者の心象)や「儀礼」(互いの人格やアイデンティティを守るための振る舞い)を成立させ、実生活で他者と共存するのに必要かつ重要な社会的行為と言える。

よって、アーサーが持つ「笑ってしまう」障壁は日常的な社会生活の存立を脅かす要因になりかねず、労働以外の場でもそれに付随するリスクを自分自身に背負わせてしまう。こうした日常の局面で前景化してくるのは、感情をコントロールできないことへのストレスである。

 職業柄としての「感情労働」とスティグマとしての「感情管理/作業」が与えるストレスにより、ただでさえ衛生面・治安面で不安定なゴッサムに住むアーサーから安息の間が奪われるのは想像に容易い。この障壁に自分なりの境遇を投影すれば、観る者の共感材料になり得るだろうが、彼に言わせれば「理解できない」ことだろう。

物語の運命を変える契機となった地下鉄事件の引き金が単なる防衛本能ではなく、あまりに身体化され鬱積した感情であることは、最初の銃撃前に見せた表情が語っている。だがそのトリガーの重みはアーサーにしか分からない。我々には分からない。

3.3 疲れを癒す高揚—呪いの機序からの解放

 感情労働が要請される職場でも、日常を社会で過ごしている時でも心のストレスに苛まれる、そんな板挟みで毎日をサバイブするアーサー。彼が劇中で見せる表情は喜怒哀楽の裏に苦悶が棲み、何気ない顔色すべてに鉛色の雲が覆っているよう。

社会という外部の環境に適応させて「(自分を)笑わせている」のか、それとも身体の障壁という内部から滲む不条理により「笑ってしまっている」のか分からなくなる二重性により、笑うが故の涙が流れる。

いわば社会的呪縛にその身を蝕まれているアーサーだが、劇中には印象的にそこからの「解放」が描かれる場面がある。つまり、日々の鬱積した感情を彼が発散と同時に別の形へ昇華させるタイミングだ。この時、何が起きているかが客観的にとらえられる以上に、非常に主観的な多幸感(euphoria)や高揚が前景化してスクリーンから見る者に訴えかけてくる。
このポジティブな感情はそれぞれ異なったシチュエーションで表出するが、最も注目に値するのはダンスがその主な媒介となっている点である、と指摘すれば腑に落ちる部分も多いだろう。

 最も象徴的なのは、アーサーが地下鉄殺人の現場から逃走後にたどり着いたレストルームでの場面。曲名「Bathroom Dance」で奏でられる弦楽器の優雅な旋律と共に大きな鏡の前で踊る様は本作のハイライトに数えられ、ガラッと場の雰囲気が変わると同時に主人公のまだ見ぬ一面が垣間見える美しいシーンである。

ただ、一見すると突然ダンスを始める流れは何の脈絡も無く見え、ダンスも舞踏というより、限りなくテンポラリーダンスに近い印象を与える身体表現の連続。それでもアーサーの言葉にならないメッセージがそこには漂っており、前後のシーンを見ても卓越した画力を見せつけている。
そんな引力を持った場面にして初めてアーサーはそれまでに見せたことのない表情を浮かべ、最後には踊りを終えた姿を鏡越しの自分に見せつけていることから、ダンス自体のクオリティは端から考えずにただ踊ることに意味が見出されていたようだ。

誰の目にもつかない場所で整然と事が進む様子から、レストルームでの出来事は他の誰の為でもない、自分の為に踊るダンスとして解釈することができる。こうした描写は、ジョーカー用のメイク中、出演するショーに向かう途中の階段にて、マレー射殺後の合間のタイミングでもこの「お一人様ダンス」が行われる。その様子を見るに、アーサーが自分の為に踊る時の主たる原動力は高揚の感情にあると考えられる。実際、レストルームでのダンス後には彼が思いを寄せていた隣人ソフィーの元へ押し入る描写が続いている。

劇中ではアーサーが表出させる負の感情が表情でそれまで伝えられてきたのに対し、高揚という正の感情がダンスによって示される。ここから、日常的な鬱の感情と苦しみが取り巻くアーサーにとって、躁的な感情の高揚は負に対して卓越する「ハレの心理」であり、自分の為のダンスはこれを享受するための手段として機能していることが分かる。

 こうすることで日々の疲れから感情的に解放され、刹那的であれ苦しみの少ない貴重な瞬間を自分なりに味わうことで、上述のストレスフルに板挟みな日常からの逃走をアーサーは図っている。
感情労働を論じたホックシールドは、表層演技と深層演技が労働者に強いられることによって燃え尽き症候群(バーンアウト)が生じ、精神的な疲労によって働く動機を擦り減らしてしまう問題を指摘していた。アーサーはクビを言い渡された時点でそれと同様の無気力状態に陥っていたと思われるが、地下鉄事件が契機となって立ち直ったように見えるのは彼が無自覚にも感情の解放を経験したためであり、あのダンスはその儀礼的行為であったと考えられる。

 実はこのレストルームでのダンスシーンは、労働者(ピエロ”カーニバル”)の姿をしたアーサーを映した最後の場面でもあり、彼はここからジョーカーになる理由と口実を発見していく。つまり、ジョーカーに生まれ変わる序の口を示しているのである。アーサーが職場から荷物を片付け、働き手に向けて掲げられた「笑顔を忘れずに!」の看板に落書きを施すことで「笑うな!」に変え、ドアを蹴り開けて光の中に消えていくシーンはその宿命を象徴する名シーンの1つだろう。

4. おわりに

 本稿では映画『ジョーカー』が持つ、観る者の共感を引き寄せる物語上およびキャラ造形の要素について、社会学者A.R ホックシールドによる「感情労働」の概念を参照の軸に据えて検討してきた。

結論として道化師という職業には、客を笑わせるためのエンタメに働き手が身を投じる姿勢に感情労働的性質を見つけることができ、作中の描写にも同様の境遇を示すものが盛り込まれていた。
また、主人公アーサー・フレックが持つ身体的な障壁により、彼には労働以外の場でも要請される「心の管理」の更なるストレスが襲った結果、偶発的であると同時に必然的な感情の発露によってジョーカーになる契機を迎える作品構造を把握できた。

 これまでの議論を踏まえ、現代日本において『ジョーカー』が持つ今日性について改めて感情労働の視座から論じつつ、その特徴的な作品性にまつわる警鐘を鳴らして本稿の結びとする。

4.1 日本ではジョーカーが”アンチ・アイドル”に見える

 本作が持つ強力な「共感装置」を考察するにあたり、感情労働の概念を援用した理由は2つある。1つは現代社会で労働が営まれる時、業種に関わらず感情労働の性質を人々が帯びるようになった状況。もう1つは感情労働を代表する職業として、日本国内でアイドルが大衆的な人気を獲得し、領域横断的にその存在がフィーチャーされている点である。

前者について、「お客様は神様」という言葉が本来の意味の上に悪しき言説が覆って蔓延する日本社会においては、職業柄を問わず感情労働の性質が付与される傾向が強い。ただの客である以上に「お客様」、ましてや最も敬うべき「神様」の言葉を宛てる価値観を前にすれば、働き手がおのずとそれ相応に振る舞うための深層演技に接続されるのも納得できる。

労働以外の場でも私たちはその場に適した感情管理を行うべく、本心を抑圧してしまう場面が多々あるが、山本七平はそうした強制力の正体を「非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ『判断の基準』」としての「空気」であるとし、日本人独特の価値判断の特徴を指摘した(山本 1997: 19)。また「空気」の源泉を山本は、ある対象にそれ自体とは別の意味・価値を付与して認識する日本人の精神性であるとして「臨在感的把握」の作用を指摘している。

そのアミニズム的な姿勢から「空気」を読む性格が強い日本人にとって、対人コミュニケーションを中心とする労働状況が拡大した近代以降の社会において、あらゆる労働の場が心と身体表現の管理を求められる現場に転じかねない。昨今で多岐に渡るハラスメントの数々は、こうした性質から生まれるアレルギー反応はつまり防衛反応として了解でき、リスク社会と名指される社会情勢の一面をのぞかせる興味深い例と言えるだろう。


 そんな風土に生きる日本人が愛好し、感情労働についての議論でも度々俎上にあがるのが、上述したアイドルという職業である。「推し活」という言葉がトレンドを飾った2023年、そのブームは流行の常として廃れた、訳ではなく自分の知る範囲では今もなお変わらず営まれている。

大衆文化としての隆盛を見せるアイドル文化は、カルチュラル・スタディーズや文化社会学の対象として長らく取り上げられてきており、アイドルたちの労働性を考察する補助線として感情労働の概念が援用されてきた。
石井(2022)は働くアイドルの側に注目して、地下アイドルによる実践からファンと接触する場面で「夢」(期待される姿)を見せる職能が感情労働に準ずる特徴であると指摘しており、大尾(2022)はアイドルファンがデジタル空間上で実践する活動を例に、彼らもまた感情労働と同様の動機で今日のファンダム/ファンシップ規範を発動させている点について論じている。

生のスペクタクルにおいて、パフォーマンスに身体表現を用い、オーディエンスに適切な感情を誘発させるアイドルの職能に注目してみると、それが道化師に近似したものであることが分かる。身体にかかる負担こそ相違はあれど、どちらも感情労働が要請されるパフォーマーである。

しかし両者は、彼らがそれぞれどのようなまなざしを受けているかにおいて、その社会的評価や立場が異なる。辻泉は日本のアイドルについて、歌って踊れる海外のエンターテイナーに比べて表現が未完成であるがゆえに、その成長過程や変化をオーディエンスと共有できる存在として肯定的な価値を見いだされる存在である、と述べている(辻 2018: 59)。

そのためにファンは、趣味として彼らを応援しつつその努力の過程に自由な解釈を加えながら、感情移入と共に自己実現の感触を覚えるのである。こうした精神活動は今や「推し活」の名の下にアイドルという職業の枠を超え、国内外のあらゆるエンターテイナーやクリエイターにその裾野を伸ばし始めている。だが、オーディエンスは道化師から刹那的な
<楽しみ>を享受するのが基本であり、我が身を同列に並べて応援することはない。彼らはアイドルに近い役割を持ちながら、オーディエンス目線での実相においては大きく異なる存在なのである。

 「アンチヒーロー」という言葉は、限りなくヒーローらしくない形でヒロイックな活躍をする人物を指しているが、さながら道化師も「アイドルと同等の職能を持ちながら、それらしからぬ扱いを受ける者」としての”アンチ・アイドル”と見なすことはできないだろうか。アイドル文化を土壌に培われた昨今のオーディエンス精神(=推す心)と仮面を被る労働精神(=管理する心)に共鳴する形で、私たちの心はゴッサムの社会に揉まれるアーサーに惹かれてしまうのかもしれない。

得てしてアーサーは劇中でジョーカーとして羽化、つまり本人も予想だにしない流れで自己実現を果たす。身の回りのしがらみによって感情の抑制ばかりの「悲劇」から、失うものも失い尽くした末に自分が思うように笑う「喜劇」へとアーサーが生きる舞台は移行する。彼と同じ生きづらさを共有するゴッサムの民はジョーカーを代弁者のごとくまなざし、カリスマ性を感受しながら"ファン"と化す。
その影響は劇中を通して共感を重ねた私たちにも及び、スクリーン越しに自他の線引きをうやむやにしてしまいかねない。その末に生まれるジョーカーを疑似アイドル化させる波の潮汐力は、本作の続編「フォリ・ア・ドゥ」の予告編や類似した現実での事件を見て分かる通りである。それはフィクション発の事象でありながら、確かに現実の私たちへの影響力を有している。

4.2 共感の暴走

今から4年前(『ジョーカー』公開から2年)のハロウィンを騒がせた「京王線 無差別襲撃事件」を覚えているだろうか。東京・調布市を走行中の電車内にて、男が乗客の70代男性を刺したのちに車両内にライターオイルを撒き放火に至った事件である。

乗客12人を殺そうとした犯行動機は、私的な交際関係の破綻とコンプレックスによる存在価値への揺らぎとされており、その意図的な犯行意識から被告には懲役23年が下されている。参照した下の記事は最後、犯罪心理医学を扱う方の言葉を借りる流れで、社会の側から心の悩みを抱える人々に向けた包摂的なアプローチの必要性について言及している。

 この事件をアイコニックにする要因の1つは、実行犯が『ダークナイト』(2008) に登場するジョーカーの格好に身を包んでいた点であり、本件の報道時もこうした部分に注目が集まっていたことが自分の記憶にも残っている。

なぜあの格好をしたのか?犯人は「(ジョーカーが)殺人行為を何とも思っていないキャラに思え、そうした感覚がなければ殺人はできないと考え、なりきった」との旨を供述している。この発言からジョーカーというフィクションの存在が、人による現実行動の動機の一助となり得たその潜在性を伺え、既述のファン的動機による実相と重なる。

 本稿では『ジョーカー』という作品が持つ共感装置すなわち、観る者の心情とリンクする描写を感情労働等の視点から検討してきた。現在の社会文化および環境と照らし重ねてみると、この共感を生む効果は作品と現実の歯車が噛み合うことで相乗的に演出されうることが分かり、その経験の結果としてアーサー/ジョーカーの存在にメタ的な認識が生じることが考えられる。
つまり苦し紛れに労働に勤しみ、周りからの眼差しに怯えながらも毎日をサバイブするアーサーの中に自分の姿を見つけ、彼の言葉や思想を信頼し、挙句にはジョーカーを自身の自己実現像として捉え投影する、一連の感性プロセスを映画の産物として享受するのである。

だが、これは全くの見当違いと言っても良い。

 それはこの作品の最大の特徴にして作品解釈をめぐる論点としてたびたび指摘されるのが、”サクセスストーリー”としての物語および描写の大半がアーサーによるジョークだった、すなわち「アーサーの強い主観性の影響下に物語世界が置かれている」との認識論に基づく。

道化師が客を笑わせるために発したジョーク =「エンタメ性(面白さ)を重視する編集が施されたナラティブ」には、感情労働的な「吐露」の隠蔽が施される以上、テクストとしてその内容から創作者の人格を理解する手立てを得るのは難しく、ましてや狂う理由に手は届き得ない。私たちに理解できるのはあくまでも作品の趣旨やテーマ、制作者の傾向などに尽きる。

実際、本稿で取り上げてきたものはどれも共感の材料にすぎず、「アーサーがどうして、いつ、どのようにして狂ったか」に関しての考察の余地はない。それはアーサーのみぞ知るはずの動機と機序で成立しているはずなので、この映画におけるブラックボックス的な扱いから「理解」の対象には捉えられない。

 にも関わらず、『ジョーカー』では私たちには理解できないはずのアーサーがこちらの共感を煽るように目線を向け、私たちに同様の痛みが響くように物語世界は彼に牙をむくのである。そして我々は、理解できないはずの人間に共感し、感化され、理解した気になってしまうのだ。

4. 3 ジョーカーという”隣人”

But I'm the joker, and I'm changing
(だが俺はジョーカーさ、そして変化するんだ)
And you can't put a pin in my arrangement
(お前らは俺のやり方に口出しできない)
Every time you hold me to the fire
(お前らが俺を火にくべようとする時)
I disappear into the choir
(俺は自分のために歌われる声の中に消えるのさ)

The Joker - Liam Gallahger
異端として糾弾されかけた後、燃えるゴッサムの中で歓声を浴びるジョーカー
https://youtu.be/NHi_8FGMObQ?si=g-ssm58kUtpRdD90 3:36)

 トランプのゲームにおいて、各ルールに準じてジョーカーのカードには他の数字の札に成り代わることができる性質が一様にして見受けられる。私たちにとってのジョーカーとは対照的に、ジョーカー自身は何者にも溶け込むことができ、他者を自分に同調させてその存在を相対化させることができる。「喜劇なんて主観」「この社会は善悪を主観で決めてる」などといった甘言は、そうした”ジョーカー化”を促す武器の1つである。

そんなアプローチを受けて「私たちは誰もがジョーカーになりうる」、「自分こそがジョーカーになるポテンシャルがある」などと思っては思うつぼ、むしろ個性を授かったと感じながらもジョーカーのファンとしては没個性な流れを汲むこととなる。差異化とワン・オブ・ゼムの要素が人々の中でせめぎ合う中でジョーカーは我々から近すぎず、遠すぎない場所から視線を送ってくるのである。

そこで”ジョーカー化”に陥ることなくニュートラルな立場からその存在をまなざし、彼と私たちの間に求められる関係を適切に形容するのが、”隣人”という認識の発想である。自分と同様の境遇の中で、互いの手が届く程度の距離を保って共感を生みながら、他人としての理解の壁に阻まれる関係性は、私たちにとってセーフティーネットとして機能し、ジョーカーに呑まれずに済む。

自他の区別をつけた上でジョーカーという他者に共感を持ったり、その要素を細分化して部分的に取り入れる分にはインスピレーションの域を超えないだろうが、彼と自身を同一視するとマズい。途端にカリスマ性とでも言うべき魅力が増幅されたように映え、「あんなふうになれるかも」とさえ思い込ませる引力が生まれる。この"シンギュラリティ" に身を委ねてしまったがゆえに、京王線ハロウィンの犯人や劇中の暴徒は、自身の現状を変えるために直接的かつ暴力的な動機を得てしまったのではないだろうか。

The cat is out the bag, I am not your savior
(ついに秘密がバレたのさ。俺はお前の救世主じゃないんだ)

I find it just as difficult to love thy neghibors
(俺には神のように汝の隣人を自分のように愛するのは難しいよ)

Especially when people got ambiguous favors
(特に人が曖昧な好意をもって近づいてくる時にはな)

Savior ft. Baby Keem & Sam Dew - Kendrick Lamar

 たとえ自分たちのような影響力を持つ人間が何かしら人々を動機づけたとしても、自らが彼らの救世主になるわけではない、まして1人の人間として隣人愛を完璧に実践できるわけがないとケンドリックは語る。たとえ働く苦しみを代弁していたとしても、他人だらけの社会をサバイブする生きづらさが生き写しされていたとしても、そして既存の社会を覆す執行者の姿を見いだしたとしても、ジョーカーはあなたの救世主ではない。

「この社会に自分が本当に存在しているのかさえ分からなかった」と吐露するアーサーは、他人からのまなざしと繋がりに飢え、ジョーカーがその身に"受肉"した後に注がれる信者からの目線を否応なく受け入れる。それはスクリーンの外からの”救世主のまなざし”も例外ではない。彼がそれを拒む素振りを見せない以上、私たちがその目線を向けた時点でジョーカーとの関係は成立してしまう。

私たちの方からジョーカーを隣人と見なさない限り、共感を寄せたはずのアーサーをかなぐり捨てさせてでも彼は心の隙に入り込んでくる。支配的とさえ言える関係から、京王線の事件のようにジョーカーが意味付けの一端を担って私たちの現実での認識に影響を及ぼしかねない可能性と、この社会でどう向き合うべきか。

4. 4 札を切るのは誰なのか?

 映画の感情移入を楽しむ文化性から、アーサー/ジョーカーを全否定すべきだとか、所詮はフィクションの存在と言ってこき下ろすべきとも言うつもりはない。事実、筆者はこの映画が大好きだし、ホアキン・フェニックス(アーサー)が扮するジョーカーは過去一の魅力を持ってると信じて疑わないファンの1人である。映画作品の鑑賞を通じて人生で救われたとの形容にも共感できるし、登場人物のキャラ性に影響を受けるのも分かる。

観る作品次第で、私たちは操り人形や詩人の気持ちを味わい、歩兵から王・女王にさえなれる。その中にジョーカーという切り札が加えられたってかまわない。だが、その札を切るのは私たち自身なのであり、そのカードに切られてはならない。ましてや現実にルールを持ち込んで他者を傷つける動機となってはいけない。サバイブしていく日々を彩る手札の数だけ、何気ない階段で舞い上がることも、打ちのめされて目にする地面から顔を上げることができる。それも人生だ。

 『ジョーカー』(2019) が見せるジョーカー像は従来の狂った殺人ピエロのようなモチーフだけが強調されるのではなく、労働者・スティグマに苛まれる人間としてのデティールも描き込まれることで、親近感を与えつつも危うい”隣人”の性格を宿している。

ソフィー(画像右)がサイアク(awful)という表現と頭を打ち抜くジェスチャーを持ち出し、
アーサーによる同様の振る舞いが以降のシーンで見られる

アーサーは劇中、ひょんなことから同じアパートに住むソフィーに思いを寄せ距離を縮めようとするが、明らかに相手はアーサーに対して特別な想いを抱えているようではない。環境悪化の道を辿るゴッサムシティの中の低所得者向け住宅に住む者同士、不満を共有したりユーモアを交わしてもソフィーにとってアーサーはただの隣人にすぎず、それ以上の深入りはしない。これこそが私たちに必要なジョーカーに対する「隣人の態度」ではないか。

それにも関わらずアーサーはソフィーを唯一の人と言わんばかりの扱いで、自身が出演するスタンドアップ・コメディに招待したり、共に食事に行ったり、絶望の末の拠り所にする「妄想をする」。自他の境界線を曖昧にして自分の側に引き寄せることで、彼は”隣人よがり”な精神環境で救いを求めた結果、彼女からの拒絶をきっかけに独りよがり(自分の主観)に走る。

アーサーの隣人へのアプローチと信者がジョーカーに対して湧く距離感は皮肉にも重なり、それぞれ自分が求めるものを相手に投影する。そうした抽出的接触に「理解」のレッテルを貼れば相手を"分かった"気になるのは易いが、同時に依存するのも簡単であるのに加え、求めていないものへの一枚岩的な脆弱さもある。

隣人の態度から隣人のジョーカーをまなざし、非日常をもたらす映画という山札から自分の手札に加えるカードを選ぶ。そのプロセスを前提に本作をめぐって、現代的な労働や社会文化が帯びる生きずらさをアーサーと共有する内なる対話、ジョーカーという逸脱の表象への接近を試みると良いのではないだろうか。現実とフィクションを超えて「推す」ことができる今、私たちに求められるのはそんな”ご近所付き合い”なのかもしれない。

The story, all names, characters and
incidents portrayed in this production are fictitious.
(本作品で描かれるストーリー、すべての名前、登場人物、
事件は架空のものです)
No identification with actual persons, places, buildings and products is intended or should be inferred
(実在の人物、場所、建物、製品との同一性を意図するものではなく、また推測されるべきではありません)

『ジョーカー』(2019)に記された虚偽人物免責事項

謝辞

本稿のインスピレーション元となった”隣人”の発想は、『ジョーカー』(2019)をめぐって議論を交わした映画の友人によるものです。
この場を借りて感謝申し上げます。

参考文献

  • A. R. ホックシールド, 2000, 石川准・室伏亜希訳『管理される心――感情が商品になるとき』, 世界思想社.

  • 石井純哉, 2022, 「アイドルが見せる『夢』 ――アイドルの感情労働」, 田島悠来編『アイドル・スタディーズ――研究のための視点、問い、方法』:  43-54, 明石書店.

  • 大澤真幸, 2018, 「山本七平『「空気」の研究』――「忖度」の温床」, 堤末果ほか著『別冊NHK100de名著 メディアと私たち』, NHK出版.

  • 大尾侑子, 2022, 「ファンの『心の管理』 ――ジャニーズJr.ファンの実践にみるファンの『感情管理/感情労働』」, 田島悠来編『アイドル・スタディーズ――研究のための視点、問い、方法』: 135-150 , 明石書店.

  • 辻泉, 2018, 「コンテンツ・メディアの来歴―ソリッドなスター/リキッドなアイドル)」, 辻泉・南田勝也・土橋臣吾編『メディア社会論』: 55-71, 有斐閣.

  • 山本七平, 1977, 『「空気」の研究』 文藝春秋.

  • 山本準・岡島典子, 2019, 「我が国における感情労働研究と課題—―CiNii登録文献の分析をもとに」『鳴門教育大学研究紀要』34: 237-251.

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