自我は雑草
この言葉は数学者の岡潔の言葉だが、やはり行くところまで行った人の言葉には真があると思う。
私が行っているセルフマネジメントという仕事は、まさにこの岡潔のいう雑草を1つ残らず取り切る事だ。
私たちの心の中にはエゴという雑草がたくさん生えている。その雑草によって、一番の精神の核みたいなものが、見えなくなっている。これを岡潔の言葉で言えば、真我というものになる。
この真我をエゴを持った小我というものが、取り巻いていて、私たちはその真我に今直接触れることが出来ない状態にある。
もっと言えば、自分の心の中にエゴ(小我)という雑草が生えすぎて、そこにあった真我なるものがもはや見えることもなくなり、その存在がそこに在るという事さえ、今の現代人はわからなくなっている。
岡潔のいうこの真我というものは、私が扱う光と同義だ。
私たちは皆だれしも、自分の心の中に光を宿している。でも、その光が自分が作り出した様々なエゴによって、深く覆われ認識できなくなってしまっている。
それで、自分の中に内在するその光を認識できなくなった私たちは、自ら光もどきを作り、それを軸に自らを形成するようになった。
つまり、自分の中に元々あった光との絆、これを私たちは回復することなく、自らの力で作り出すことになった。
大元に還るという発想を持つのではなく、私たちは、その光という大元、真我という大元との関係、絆を絶って、自分で自分を形成し始めたという事になる。
ここでみなさんに知ってもらいたいことは、私たちはこのすべてのソースである源、つまり真我というものとつながることなくして、生きることは出来ないという事です。
真の意味での生、これを感じるためには、この真我との繋がりを回復することが一番大切です。
私たち人間の身体を流れるエネルギー、それはこの真我との繋がりにおいて獲得することが出来るものなのです。
このエネルギーは代替不可能です。
けれど、この理屈が人間にはわからない。私たちは、この真我なるものからエネルギーを受け生きている。これがわからずに、人間というものは、自らを動かすエネルギーは、自分たちで作ることが出来るとそう考えます。
これは実に傲慢で西洋的な考えです。
日本人とは元々、こうした考えとは全く別の考え方を持っていました。
私たち日本人というのは、常に自然と共に生きてきた人種です。この
世界に存在するその全てのものに命が宿るというアニミズム的な宗教観をもって生きていました。
それはつまり何を意味するのか?といえば、私たち人間はこの世界の一部であるといった考えです。
こうした考えの底には、日本人としての謙虚さがありました。自分たちは、自分の力だけで生きているのではなく、大いなるこの自然に生かされている。
こうした謙虚な想念を私たち日本人は持っていたという事になります。
でも、こうした東洋的な考えが、時代の流れと共にどんどんと変化してきてしまいました。
今はこの日本にもしっかりとすべては自分の力でなんでも制御することが出来るという考えが定着してしまいました。人間こそが、この世界で一番大きな力を持ち、この森羅万象すべてを意のままに動かすことが出来るという想念。これはとても恐ろしい想念ですが、残念ながら、今の私たちはそういった想念を持つに至りました。
人間がこの地球の全てを統括する トップだという考え方。これはあまりにも危険です。私たちは今こそ、そうした謙虚さを忘れた自分自身を取り戻す必要があります。
宮崎駿監督の作品に天空の城ラピュタというものがありますが、この映画を見てもらえばよくわかるように、私たち人間は傲慢になりすぎた。つまり自分の力で全てを制御することが出来ると考えたのは、ムスカ。
そして、自分たちの力だけでは人間は生きていくことは出来ずに、自然との共生こそが、これから開かれていく世界では必要だと説いたのが、シータとパズー。
この話の結末は皆さんが知っている通りですが、シータとパズーは最後、木に生かされる。でも、傲慢の塊になって、自然すらもわがものとしようとしたムスカは、やっぱり最後のシーンで自然そのものの餌食になって死んでしまいます。
以上の様に、元々あった光との絆を失って、エゴだけで自我形成してきた人間とはいつか必ずこのムスカと同じ道を辿ります。
でも、この光との絆を感じている人間、その失ってしまった光との絆を少しでも回復させようと努力するのなら、私たちの未来はシータとパズーが歩んだ道と同じになります。
これは本当の事です。
だからこそ、今この現代に生きる私たちは自分自身の心の中に真我が見えなくなるほどに生えているその心のエゴという雑草を一本残らず全て抜き取らねばならないという事になるのです。
私の提供しているセルフマネジメント及び、マインドマネジメントの詳細は以下のホームページにてご覧いただけます。