山を歩き、掛け念仏を唱え、頭をからっぽにしてきた。
仕事のご縁で福岡県に唯一の神宮がある英彦山(ひこさん)を訪問しました。
英彦山は日本三大修験道の一つで、山伏たちが修行に励んだ場所。
山の斜面に向かってまっすぐ伸びる参道の脇には、訪れる人たちがかつて利用した宿坊の名残を見ることができます。
最盛期の江戸時代には800軒もの宿坊が存在していたそうです。
このような地でのイベントにご縁あって参加したのですが、ここからそのイベントの全工程を特に脚色なくレポートしてみます。
もしこのような体験をしたいという方がいらっしゃいましたら、いいね(noteでは「スキ」ですね)ボタンを押していただいたり、コメントいただけますと、主催者にフィードバックできるので非常にありがたいです。
こんな場所になぜご縁があったのか。
日常的に古民家のリノベーションや古い街並みの保存に関する仕事を担当していることがきっかけです。
建物の改修というハードの観点ではなく、町を活性化するにはこの地に残る歴史的資源をどのように活用したら良いか?という命題に応えるべく、弊社とお付き合いの長いクライアントが町から依頼を受けていて、その答えを探るために、古来山伏が行っていた修行体験を試しにやってみよう、ということでツアーが組まれ、それに誘われ参加した、という経緯です。
博多駅から観光バスに揺られて約1時間半、参道のスタート地点にある銅(カネ)の鳥居に集合した時、すでにそこには山伏の姿が!
今日のツアーの主催者さんによる一日のスケジュールの説明と、山伏さんから注意点やイベントの意義などをお聞きし、まずは山の中腹にある下宮を目指します。
ハァ、ハァ、、、。。暑っつ。。
気温は確か3℃前後だったと思うが、階段登りきったところですでに汗だく。
普段登山などしないので、この日のために張り切って買ったアウターはすでに脱いでザックの中に。
到着した下宮にて御祈祷。
途中時折吹き鳴らされる法螺貝の音。(思っていたより音高い。)
初めて生で聞きました。
意外にも、一定の音を吹き鳴らすのではなく、音程や長さも色々あって、これは音楽センスがないと難しそうだなと思いました。
ここからいよいよ山へと入ります。
ここから修行体験の本番とのことで、山伏たちが山に入り歩くときに唱える「掛け念仏」を教わりました。
念仏といっても難しいものではありません。
先導してくださる山伏さんがまず「ざ〜んぎ、さんげ」と肚から声を出します。後に続く我々はそれに応えて「ろ〜っこん しょ〜じょ〜う」と返します。
これを歩いている最中常に唱えながらすすむ、というものでした。
「ざんぎ、さんげ」とは「慙愧懺悔」
「ろっこんしょうじょう」とは「六根清浄」
罪や汚れを自戒し、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)を清浄にする。
山を歩き、汗を出しながら、無心で念仏を唱えて心を無にして浄化する、
自分に向き合う修行でした。
始めは大きな声で唱えることに恥じらいのあった参加者の面々も、すぐにこの修行の効果というか、効能に気づき始め、大合唱のもと歩みを進めます。
体を使いながらかつ肚から声を出し続けるという、結構な肺活量を必要とする運動に、人間は頭を使うことを忘れ、ただただ念仏と歩調のリズムに心を委ね、ある種のトランス状態に突入できてしまうものでした。(気持ちいい!)
1時間ほど歩いて、途中にある玉屋神社の周りでお昼ご飯。
お弁当をいただきました。
山伏が当時食べていたと記録される内容を、現役のシェフが地域の方に聞き取りをし、素材から集めた質素に見えるけど非常に豪華なお弁当。
めちゃくちゃ美味しかった。。こんにゃく最高。
疲れた体に活力をいただきました。
お昼を食べて再スタート。
登りはあと1時間ほどらしく、道中に「鬼杉」と呼ばれる樹齢1200年の大きな杉の木を見て、そこから行きのルートとは違う復路になるとのこと。
お弁当を食べて元気は出たとはいえ、寒さと慢性的な運動不足が祟り、この後の行程に非常に不安を覚える自分。大丈夫か。
とはいえ、進むしか戻る道はないので、気持ちを引き締めます。
「ろ〜っこん しょ〜じょ〜う」があれば行ける!
途中ロープが設置された崖を降りたり、(女性の参加者が滑ったが山伏のスーパーセーブでことなきを得たり)、今にも倒れてきそうな枯れ木の下をくぐってスリルを味わったりしつつ、ようやくスタート地点に戻ってきました。
スタートから4時間余りが経ち、体はもう言うことを聞いてくれるところは一切ないけど、逆に心は晴れていて気持ちのよい不思議な状態。
山の修行はこれにて終了。
お次の体験は護摩焚きを目の前で拝見できるとのこと!
願い事を書いたお札をお渡しして、護摩焚き開始。
ちなみに僕が書いたのは「社運隆昌」
これからも会社を頑張って盛り立てたい。
願い事を書いた札をさっと火にくべていただいて短時間に終わるのかと思いきや、30分くらいかかる長丁場。
読経しながら台の上にある様々な供物を火にくべる。時に水や油も投入される。
どのような意味があるのか分からなかったが、終了後にひとつひとつの動作や供物の意味を解説してもらい得心。なるほどと唸る。
本当ははじまる前に解説する予定だったようだが、山歩きに思いがけず時間がかかったため割愛されたとのこと。(この日のイベントは日帰りなのです)
本番では開始前に解説されるとのことなので、体験される人は正座も気にならない体験になるのではないでしょうか。
この後は最後のイベント。
現存する坊の囲炉裏を囲んで参加者、宮司さん、山伏さんと一緒に晩餐。
ここでもお昼のお弁当同様、山伏をもてなした時代の料理の再現。
鹿や熊の肉もあり、精進料理かなと思っていたところに思いがけず油っけのあるタンパク質を取れて嬉しい。
囲炉裏端で炙った田楽や魚も美味しかった。
帰りのバスの時間が迫っていたので、最後は宮司さんと色々とお話しを。
今日の体験を各々がどのように感じたのか、この山の未来はどうあるべきか。などなど。
無形文化を受け継ぐ人たちの胸中は、都会でのほほんと過ごす我々には推し測れないが、皆一様に今日得た体験の素晴らしさを伝える。
ここで宮司さんから一言
『「楽しい」かったらあかんのやけどなぁ(笑)』
確かに。
「修行」と名のつく行為で「楽しい」と言うと、どこか語弊があるように感じる。そもそも修行は楽しいものではないはずだ。
それでも、参加者は一様に「楽しい」と感じていたようだ。
これはおそらく、日々都会と人々の雑踏に揉まれて精神的に疲弊している人間が、頭を空っぽにして体を疲れさせる経験ができたことが、日常では得難い非日常のものだったからだと思う。
僕も皆と同様に「楽しい」と感じた。
インプットとアウトプットに明け暮れる日々があり、それ以外のことに時間を割くことを出来るだけ避けていた。
しかしそれを続けることがクリエイティビティを下げていくだろうことも自覚していた。
だから、時折思いたったように瞑想をしたり、ジョギングをして無心になろうとしたりもした。
それらは一定の効果があったとは思うが、今日体験したことに比べると小さなことに過ぎない思った。
空っぽになった頭は吸収能力が高くなる。
でも、自分のおかれている環境も変えないと、頭を空っぽにすることは難しい。
同じように感じる現代人は多いと思う。
そんな人たちにこの体験ツーリズムは非常に効くのではないかと感じた。
初めましての人たちとチームになって体験したが、帰りのバスでは前から知り合いだったような打ち解け具合で話ができたことからもそれが伺える。
いつか宿坊が復活して、泊まりで山に入れる日が来ることを切に願う。
早朝出発、日帰りでこの修行は疲れすぎるから(笑)