【小説】奔波の先に ~聞多と俊輔~#72
15 運命のひと(3)
聞多は気晴らしにと浅草の方に向かった。芝居を見ればなにか変わるかもしれないと思った。しかし、どの小屋にも足が向かなかった。もう帰ろうと思い船乗り場についた時、声をかけられた。
「井上様」
「えっ、武さんじゃ」
「お帰りですか。偶然ですね」
笑いかけられて、聞多は思わず目をそらした。昨夜うなされた姿を見られているのも、少しやりきれなかった。
「あぁそうじゃ。なんとなく回り道をしてこちらに来てしもうた」
「浅草でなにか面白いものでもと思いましたが、なさそうだったので」
「わしもそうじゃ。なにかうまいものでも一緒に食わんか」
少し珍しいものという感じで、どじょうを食べに行った。
「武さんは薙刀をやられるのか」
「朝のあれですね。まぁ一応です。なんなら一度お手合わせでも」
「いや、わしは遠慮させてもらおう」
聞多がそう言うと、武子は笑った。その笑顔につられて、聞多も笑った。
「どうせ、伊藤あたりからわしの剣の腕前は、大したことないと聞かされておるんじゃないか」
「そのようなことは。井上様と伊藤様は尊皇の志士としてご活躍されたと、書生の方にとっても憧れでございますよ」
「わしを持ち上げてもなぁ」
「美味しいお食事いただいてます。それにお話も楽しゅうございます」
「そうか、それはよかった」
「異国のお話など、もっと詳しくお聞きしたいくらいです」
「そねなことならいつでもお受けする」
「あまり遅くならないうちに帰りましょうか」
「そうするか」
大隈屋敷の門の前で、先に武子が入っていった。
「今日は本当にありがとうございました」
その笑顔は聞多の心を明るくしていた。駆け引きでなく素直に武子に惹かれていることを意識していた。ただそれをどう伝えたらよいか測りかねている。
聞多が屋敷に入ろうとすると、待っていた博文が声をかけた。
「聞多、まっちょったよ」
「あぁ俊輔か、すまんの」
「あぁ俊輔か、じゃない。ここではなんだから、君の長屋で話をしたい」
「随分怖い顔じゃ。わしは俊輔を怒らせるようなことをしたかの」
博文に連れて行かれた聞多を武子は眺めていた。
「木戸さんから聞かされたよ。聞多は造幣寮が一段落したら、兵庫知事に転任したいと言ったのはどういうことじゃ」
「そのことなら、岩倉さんにも話をつけちょるよ」
「逃げるのか。民部省の分離や廃藩が進みそうもないからか」
「そねぇなんじゃない。己の目の届く範囲での仕事がしたいだけじゃ」
「中央での仕事には興味が無いということか。山口での騒動が気になっているのか」
「山口でのことはわしの失敗じゃ。でもそれとは別のことじゃ」
「だったら、僕がアメリカに行ったら、その代わりに東京に来て欲しい」
「わしには荷が重いの」
「何を言っとる。聞多しか居らんだろう」
「それにわしは廃藩はまだまだだと思うちょる。廃藩には論の一致が必要なんじゃ。おぬしらの役には立たんじゃろ」
「役に立つかは僕や大隈さんが決める」
「アメリカで何をするんじゃ」
「エコノミーの現地を見たい。バンクとかストックだとか言葉だけじゃようわからん」
「それはええな。アメリカはまだ新しい国じゃ、新しい発見もあろうな」
「だからだ。僕の考えをわかる人が、おらねば何もならんのじゃ。大隈さんの参議就任の件もある。大蔵の席を大久保さんの一派に取られてもええんか」
「それは」
「決まりだ。東京の大蔵本省に出てくるんだ」
「負けた。俊輔の言う通りやるしかないの」
「武子さんともうまくやれるさ」
「なんでそねーなことになる」
「僕には聞多のことは、よく分かるということじゃ」
博文は意味ありげに微笑んでいた。聞多にはその笑みが意地悪げに見えた。
「大隈さんとも話をせねば。聞多も一緒じゃ」
聞多の手を引っ張り、博文は母屋に連れてきた。
「大隈さん、聞多を引っ張ってきた。話を詰めよう」
「やっと来たか。おぬしがこんば話にならん」
「わしはおぬしらの駒になるか。好きに動かしてくれ」
聞多はつまらなそうに言った。
「井上のその覚悟、吾輩も見習うべきか、伊藤」
「大隈さん、万難を排してきっとできますよ」
「井上の気持ちが決まったのなら進めていこう」
「これで終わりでええか。さすがに疲れた。眠い」
聞多はふらぁっと立ち、母屋を出て自分の長屋に向かった。体が熱い、特に傷痕が熱を持っているようだった。だが寝込む訳にはいかない。とりあえず寝て明日に備えることにした。部屋に入ると、そうだ木戸さんから預かった条約集を確認しなくては、と布団に包まりランプを付けて読み出した。しかし英語はもちろん日本語も頭の中に入ってこなかった。そのまま気を失うように寝たらしく、朝を迎えた。