自信を持ちたい。そう言わなくなったのはなぜか考えた
最近までわたしは自分に自信がなかった。ことあるごとに「自信がない」とつぶやいていた。チャレンジしない理由のほとんどは「自信がない」だった。
最近というのは、本当につい4ヶ月ほど前までです。でも、このところ「自信がない」と言わなくなった自分に気がつきました。
そう問われたら、いまも少し悩む。返答に困るという方が正しい。
でも、誰にも聞かれていないのに自分から「自信がない」と言うことはなくなったように思います。
ちなみに自信満々なわけではありません。
なにが違うかといえば、前みたいに「自信がない」とあえて言う必要がなくなったのでしょうね。自信を持てたのではなくて、自信がないと言う必要がなくなったのだろうと。
なんでそうなったのか、気になったのでこのnoteを書きながら整理していこうと思います。
自信を持ちたいですか?というパワーワード
昨年から、コーチングやらキャリアカウンセリングやら自己分析やら、自分を理解すること・内省することにお金と時間をかけてきました。
自分を見つめなおすきっかけをもらったり、自分の使っている言葉の定義をあらためて整理する時間になったと感じています。
その中で、もらった言葉や問いで心に突き刺さって離れないものがいくつもあり、価値観や思考回路を劇的に変えてしまったものがありました。
そのひとつがこれです。
「自信がない」と、ことあるごとに言うわたしに対して、この問いを投げてくれた。そこではじめて、「自信がない」とはどういうことなのか考えたんですよね。
それで、自信が持ちたいかと問われてわたしは「はい」と言えませんでした。本当に望んでいるのは「自信を持つ」ことではないと思ったからです。
わたしが「自信がない」というとき、本当に欲しいと感じていたのは「今の自分を理解して、受容して、好きでいられること」でした。
なので、いわゆる成功体験を積んで実績を作って自信を持つ、というのは本質的な課題解決にならない。
何かチャレンジするときに、どうも自分に自信を持つことができずに一歩を踏み出せない。そんなときに必要なものはこれまでの成功体験によって作られた自信ではなく、「いまの自分ならやれるかもしれない、だめだったとしてもチャレンジしてみたい」そう思えるぐらいの自己理解と、自己受容なのだと気がつきました。
そう気づいてから、成功体験を積むこと・成功することへの執着がなくなったように感じています(もちろんやるなら成功したいし、そのために行動するのだけれど)。執着がなくなったら、成功も失敗も、全部含めてこれまでの経験が、自分の経験値として大事にできるようになりました。
そして、今までの自分の行動や選択に前よりも納得できる自分がいたんです。
これまで自分がやってきたことをしっかりと過不足なく理解して、放漫に肯定するのでもなく、無駄に卑下するわけでもなく、フラットに自分を捉える。そうすることで、これまでよりも「いまの自分」を好きになれました。
成功体験を積み、自信を蓄えたわけではない。これまでのわたしと今のわたしはなにも変わっていない。でも、捉え方が変わって、本当に欲しいものがわかって、いまの自分を理解・受容することができた。
そうすることで、もっと自分の気持ちに正直になるということが幸福に直結することを理解できたのだと思います。
そこからは自信がなくても、まずは自分がやりたいと感じたことにはチャレンジしてみることができるようになりました。チャレンジするのに、自信は必須ではなかったんですね。
できることが増えた分だけ、できないことも見えてくる
もうひとつ。これは前に別のnoteで書いたことです。
自信を持つということは、自己受容とほぼイコールなのだと思うんです。だからこそ、どこまでいっても自分にマルをつけてあげられないことってあるのかなって。
第三者からしたらすごいキャリアを歩んでいる人も、実績がある人も、「もっとできる」とか「他の人と比べたらまだまだ」とか。自分の実績を自分で認めてあげることができない。自分の頑張りを自分で認めてあげることができない。
自分で自分を認めてあげることってとっても難しいんですよね。
でも、いまに満足できなかったとして、いまにマルをつけてあげられなかたっとして、ここからたくさん努力しても、未来で自分を認めてあげられる保証はないなとも思うんです。
できることが増えるほど、できないことがわかるようになるから。もっと先を行く人がいることに気がついてしまうから。
だからこそ、自分の価値を他人から評価してもらう経験を積んでいく必要があるのかもしれません。その中で、「もしかしたらこれはわたしの強みなのかもしれない」とか「もしかしたらこれができるのかもしれない」と少しづつ自分を認めていく。そうやって少しづつ自分を肯定してあげることしかないのかなって。
それから、どんなに道を極めていったとしても、もっともっと先をいく人がいて、その人すらも自分自身を「まだまだこれから」と思っているのだとしたら、「自信がある」ことにどれほどの意味があるのだろう。
「まだまだ」と自分自身の伸びしろに期待できる方が、これからにチャレンジする勇気になるのではないだろうか。そんなことを思うようになりました。
「まだまだ」と自分を追い込んだり、否定するのではなくて、「まだまだこれから」と自分の背中を押すことができたら。もしかしたら、自信なんてなくても一歩を踏み出すことができるのかもしれない。そう感じるようにもなったんです。
自信があるかないかを自分に問わなくなった
大きくはこの2つの気づきから、わたしはわたし自身に「いま自信があるか」と問わなくなりました。なにか目の前にやりたいことが現れたときに「自信のあるなし」は関係なくなったんです。
あるのは「やりたいか」「やりたくないか」だけなのだと思います。
やってみてだめでも、いまだめだっただけで、これから一生だめなわけではないし。やってみたら、次やるべきことが見えてきたりして、やるべきことが見えると「できるかできないか」ではなく、もう「やるかやらないか」だけだと思うんです。
そうやって、最近は「自信」に頼ることがなくなりました。自信はあってもなくてもいい。
いまの選択に誇りを持とう。やりたいことにチャレンジしているいまの自分に、小さくてもいいからマルをつけよう。
そうやって一歩踏み出していけば、もしかしたら「自信のあるわたし」に周りからは見えるようになるのかもしれないから。
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