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ため息俳句 ほうれん草で一品

 毎日の食事の献立は、おおむね妻のリクエストに任せているが、それだけではなんだか寂しい時は、この季節なら取り合えずほうれん草のお浸しを添えて置けばよい。

一品はほうれん草のお浸しで  空茶


 ほうれん草なら畑で作っているし、お金もかからない。
 小松菜もあるのだが、どっちかというとほうれん草がよい。

 さて、いつもお浸しでは芸がないと云われそうで、この頃は時々胡麻和えも作ることにした。
  実を云うと、ほうれん草の胡麻和えなんて、若い頃は大嫌いであった。大体において、白和え、なますとかも含むのだが、そういうのは見るからに嫌であった。
 ところが、この頃は案外旨いと感じることもある。
  どういうことだろう。
 
 年を取ると味覚も単純化していって鈍くなるというが、そうでもない。食わず嫌いも思い込みのなせることとすれば、年を取るというのはそういう偏見から解放されて行くことかも知れない。「なんでもあり」というのが、世の中の真相であると、ようやくわかって来たからかも。その「なんでもあり」の中から、口に合うものをもう一度探してゆくのは、楽しいではないか。「なんでもあり」といえど、受け入れられなことは断固受け入れないのであるが。そういうのが頑迷と周囲には見えるのだろうが、それこそ愚かなことだ。

 そのほうれん草の胡麻和えは、妻の実家の母などは「胡麻よごし」と呼んでいた。
 その「よごし」というのを、つい最近まで「汚し」であると思っていた。胡麻で和えるのを汚すというのだろうと、思い込んでいた。が、そうではなかったかもしれない。胡麻よごしのよごしは、「夜越し」であるという話を聞いてそういうものかと思った。宵に作り置きして、翌日食すのだと云う。それに、富山の方には「よごし」という郷土料理があるのだという、どうもそれは胡麻和えではないらしいのだが。
 
 ともあれ、ほうれん草の胡麻和えもお手軽で結構なものだと、思うこの頃である。

茹でたとも灰汁は流せよほうれん草