【読書】いしいしんじ抄訳『げんじものがたり』を読んだ
大阪出身で京都在住の作家、いしいしんじが現代の京都の言葉で訳した源氏物語。
平安時代というのだから千年以上も昔のことで、しかも当時の都、平安京での非常に身分の高い人たちの話しなんだけれども、現代の京都の言葉、しかもとびきりフランクな口ぶりで訳されているので、なんというか親戚のやんちゃなお兄ちゃんの与太話を聞かされているような気安さがある。
しかもその内容たるや、昔から生まれが良くて、容姿が良くて、賢いけれども人懐くってセンスもあって、甘え上手で、自分にすこぶる自信がある男というのは、たとえ倫理観がぶっ壊れていても大層おモテになるんだなあというもので、そんな男がやりたい放題やって、たまにちょっと後ろめたくもなるけど、基本反省無し、お咎め無しというもの。昔ヤンチャした人の武勇伝を聞かされているような鬱陶しさも、おもしろさもある。結局、「へえ、それでどうなったの?」っていかにもくだらないことやってんなって表情しながら根掘り葉掘り聞いていくような気持ちで一気に読んでしまった。
そのおもしろさというのは話の下世話さだけではなくて、理想の男とそれに振り回される女たちというデフォルメはあるものの、美しいところも醜いところも滑稽なところも、徹底して人間を描いてるからだと思う。貴族だから大して咎められることもなくのびのびとやっているだけで、光源氏の身勝手な物言いや振る舞い、移り気というのは大なり小なり自分の中にもあって、それを現代の倫理や道徳の枠の中で抑えて生活しているという人は結構いるんじゃないか。だから千年以上にもわたって多くの人に読まれ続けているのだと思う。
それにしても紫の上にまつわる話は酷いけどね。好きな人に似てるからっていうんで十歳の女の子を拐うようにして自分の用意した家に住まわせて、仲良くお兄ちゃんしてると思ったら、そろそろいいだろって感じで枕を交わす。案の定光源氏を面倒見のいいお兄ちゃんだと思ってた紫の上はショックを受けてそれ以来心を閉ざすようになるっていう。
これ、現代なされてる「成年は恋愛だと言い張っているが若年者にとっては性加害を受けている」っていう話そのものでしょう。グルーミングというんですかね。本人とも周囲の大人とも信頼関係を築いて、好意を示し続けて、でもその好意は恋愛感情や性欲に基づいているから、どこかで手を出してくる。そりゃあショックだよね。
でもそこで紫の上がショックを受けて心を閉ざしたから、まだ人間を描いているといえる。そこで紫の上が「私もずっと好きだった」みたいに受け入れたりするようなご都合主義でいかれたら、本当の下品になってしまう。誰かのための物語じゃなくて、愚かで理不尽な人間そのものを描いているから、これも源氏物語という作品にとっては必要な挿話なんだろうと辛うじて思えはする。気持ち悪いけど、そういう人間を描いているわけだから。そしてそういうことをしかねないのが人間だったりもするからね。
それにしても千年前にこんな長編が書かれていたことは凄いことだなあと思った。ところどころに和歌が入る演出なんてのは、今で言ったらミュージカルみたいなことになるのかな。こういうところを当時の人は「はは、シャレてんなあ」とか思いながら読んでたのかなとか、想像するのも楽しかった。