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その時、再現してほしいと願う映像は

「ワンダフルライフ」という映画がある。是枝裕和監督の作品だ。

会社員になってすぐの22、23歳の頃に、映画好きの友人が見つけてきて一緒に見た。友人は単館映画が好きで、渋谷の単館映画館に連れ立ってよく見に行った。

彼女とは色んな映画を見た。知的な友人が選ぶ映画はどれも面白くて、変わっていて、印象に残った作品はたくさんあった。今でも大好きな作品は当時見たものが多い。

しかし映画のストーリーやシーン、セリフよりも、その映画の「存在そのもの」みたいな重さで私の中に残り、繰り返し繰り返し頭の中に出てくるのは、是枝監督の「ワンダフルライフ」だけのような気がする。

「好きな映画は何ですか?」と聞かれたときに、この映画を出すことは少ない。ごめんなさい。

好きなのだ。名作なのは間違いない。でも好きのレベルがなんだか、いわゆる普通の好きを超越しちゃっている感じなのだ。

1回見ただけなのに自分の心の奥に1つの世界として取り込まれてしまっていて、普段はすっかり頭の片隅からも追い出してしまっている故郷や親のような存在。創作作品ではなくて観念的に取り込まれている感じ。自分にとってはそんな不思議な映画が「ワンダフルライフ」なのである。

でも「ぜひ見てほしい!」と色んな人に問いかけたくなる映画でもある。



古い建物に人々が集まる。そこはまるで学校のような場所で、集まった人々は死者である。死者なりたての人とでも呼ぼうか。そこで人々は「自分が一番大切にしたい思い出」を選ぶ。

そしてその思い出はスタッフの手によって映像作品になる。本人に聞きながら、細部まで完璧に再現するのだ。そして出来上がった数分の映像作品を本人が上映ルームで観る。それを観たときに、「ああ、良かったなあ」と当人が満足できれば、その死者は死後の世界に旅立てる。

・・・というようなストーリーだった気がする。

そこで働くARATA(井浦新)や、伊勢谷友介は、その「一番大切な思い出の1シーン」を選ぶことができない。選べない人はずっとその建物でスタッフとして働かなければならない。つまりあの世に旅立てない魂という設定だった・・・はずだ。
(なにせ20年以上前に1回しか観ていないので、記憶がぼんやりしている。間違っていたらすみません)



すべてが淡々と描かれていく。建物の上の空はいつも冬の薄曇りのような色だった気がする。

思い出を語る人達、つまり死者の役として、多くの役者ではない一般の人たちが登場する。彼らがぽつぽつ語るシーンが印象的でドキュメンタリーのような感じを出していた。

彼らが選ぶ内容は、路面電車に乗って風が頬を撫でてうれしかったなあとか、そういうなにげない生前の1シーンだった。

とにかく、とても静かな映画だった。

20代のある日、わたしはこの映画を見てからずっと、「私は死ぬときにどの1シーンを選ぶだろう」とよく考えたり、とってもきれいな景色や空気に出会ったり、思わぬ感動的な体験をしたりすると、「ああ、この思い出を候補に上げるかもしれないなあ」と想像したりする。

「いやいやそうは言いつつ、意外と子供の時の思い出だったりしてして。」とか、「案外綺麗な瞬間でなくて、散らかった家でゲラゲラ笑っている今のこの時だったりして」と、思ったりもする。

勝手に心の中で、わたしは死後にあの「ワンダフルライフ」に出てきた建物に集まることになっていて、スタッフさんに訥々と語る想定なのだ。その想定で普段生活していると言ってもいい。

死ぬのは怖いし、想像がつかない。死ぬかもというような病気になったこともないし、きっとそういう目にあえば、わたしのことだからパニックになるに決まっている。

でも私は死んだときはあの建物に行きたい。「どのシーンを選ぼうか」と迷ったりしてみたい。

そして細かいところまでスタッフさんに伝えて、作品を作ってもらい、ゆったりとそれを観て、あちらの世界に旅立ちたいなあとか、身勝手に思っている。

その想像が少しだけ、わたしの生きることを後押ししてくれている。

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