私にとっての仕事とお金(2)
自分の記録として仕事について書いている。
前回のnoteで、過去の選択で良かったなと思っていることは2つあると書いた。
1つ目は、システム開発の仕事についたこと。
2つ目は、1年ほど個人業務委託に転換したこと。(現在は雇用されている)
人生にあまり大きな悩みがない私だが、仕事については悩んでいる時間が長かった。今こんなふうに思えているのは、幸せなことだと思う。
ここに至るまでの経緯を、気が変わらないうちに書いておきたいと思った。
人生は長いから、また悩んだり逡巡したりするかもしれない。だから、今この瞬間を記録しておこうとしている。
事務職で入社
大学に来た求人票を見て、何をしている企業かもよくわからないままに、渋谷のコンピューター関連の小さな企業に就職した。
小さなとは言っても、28年前でも数百人は社員がいたし、創業も古く、業界的には中堅くらいかと思う。
入社してしばらくして、社長室に配属された。
パーティーションに区切られた6畳ほどの空間に、男性2人、女性1人が座っていて、そこに新人の私が加わった。
仕事は面接で言われたとおり、社内報を作る仕事だった。
構成を考え、社員から記事を集め、ワープロでタイプし、タイトルを付け、印刷会社に渡す。月1回発行でそれほどフル稼働な作業でもなく、空いている時間は、お茶くみやコピーとりなどをしていた。
社内報の仕事は、わりとすぐに慣れたような気がする。
一方で、お茶くみは下手で時間がかかった。それ以外にも手先を使う仕事がとにかく苦手で、糊で何かを貼り付けるみたいな時に「糊はそんなにたくさんつけなくてよろしい」と、室長に言われた。
会社は、面接での印象どおり良い人が多かった。
特に同じ社長室の先輩女子社員の人には優しくしてもらった。私のおっちょこちょいなところや不器用さを笑い飛ばしてくれて、できないことは素早く、しかしさりげなくフォローしてくれるような人だった。今思えば、時間はゆったり流れていて、その人とおしゃべりしすぎて叱られたりもした。
住まいは予定どおり寮に入った。ワンルームマンションで快適だったし、同じ寮の同期の女の子たちと仲良くなった。
給料は寮費とその他経費をのぞくと、手取り15万円にも満たなかったと思う。「給料が安い」は同期との飲み会の恒例テーマだったが、将来設計もあやふやな時に、果たして真剣に困っていたかは疑問だ。
大学卒業まで経済的に支えてくれた祖父が亡くなったり、大人になって初めて水ぼうそうになったり、色々なことがあった気がする。そのあとの他の年の出来事はぼんやりとしか覚えていないのに、この1年に起きたことはなぜか鮮明に覚えているから不思議だ。
違和感、そしてコンピューター
社内報の記事が埋まらないときに自分で埋めたことが数回あった。
ある日、その1つを読んだ外部の顧問の先生が「この文章は素晴らしいですよ」と、感動してくれた。その人は私に会うたびに結末を復唱するぐらい、その文章を気にいったらしかった。そしてあろうことか、社内報にたびたび自分の訓話を載せていた社長に「あの人はあなたより文章がうまいですよ」とまで言ってしまった。
ある日社長に、「この文章を直してみて」と自分の原稿を渡されたことがある。直して持っていったら、上司である室長に後で怒られた。というよりも呆れられた。「君は馬鹿だなあ、もう。真に受けて直すなんて!」と。
後で考えてみれば当たり前だった。馬鹿正直が過ぎる。
でも果たしてそうだろうか。もしかしたら世の中の社長には、そうじゃない人もいるかもしれない。「助かった、ありがとう」と言う人もいるかもしれない。ねぎらいではなく、社長業は多忙だから、本気でそう思う人もいるかもしれない。
40歳くらいまで、23歳当時の自分のことを、なんて空気が読めないアホだったのかと思っていたが、50歳になった今、そうとも言えない気もしている。
長く生きていると物事の解釈が変わっていくことに気づく。
社員旅行の集計か何かのために、パソコンを生まれてはじめて触る機会があった。
世の中はWindows95が出たばかりだった。Windows3.1を使う人もまだ多かったし、そもそも社長室にはパソコンはまだなかった。
電源の入れ方もわからず、真っ暗なモニターを見て「これはどうすればいいんですか?」と、近くの席の人に聞いた。それが当時の私のITリテラシーだった。インターネット普及前で、そんな言葉もまだなかったけれど。
戸惑いながら使ってみた。Excelがややこしい集計をやってくれることに驚き、感動した。幸せなコンピューターとの出会いだった。
社長室に戻ると、社長を取り巻く男性たちの話題は、主に麻雀やゴルフだった。今思えばただの雑談である。今なら参加できるだろう、嬉々として。
でも20代の私は、だんだんとそれを聞くことが辛くなっていた。
システム開発部門へ
1年半ほどたったころ、会社を辞めたいと上司に伝えていた。
その時何を考えていたかはあまり覚えていない。事前に誰かに相談したり、打ち明けたりした記憶もない。そもそも何に悩んでいたのかも明確に覚えていない。でも、この場に居続けることを難しいと思っていた。うっすら感じていた違和感が勝手に膨らんでいたのかもしれない。
上司は組織変更で違う人になっていた。社長の文章を直した私を「馬鹿だなあ」と言った人ではなく、開発部門からスライドしてきた物静かな人だった。
その人はこういった。
「あなたなら開発部門はどうだろう」
意外だが、うれしい申し出だった。
渡りに船と異動を希望した。
開発の仕事にほのかな憧れを抱いていたのだ。
社長室の隣に開発部門があった。狭い廊下を抜けた先に見える広い部屋。机に並ぶたくさんのUNIXサーバーやWindowsのパソコン群。たくさんのウインドウと、そこに並ぶ意味のわからない小さな文字の羅列。
その中を知りたい、入ってみたい、と思った。
でも事務職の1年半は楽しかったし、今でも懐かしく目に浮かべるような、楽しい思い出が多い。あの時間がなかったら、なかなかにその後の社会人生活は辛かったと思う。
渋谷を離れる
異動が正式に決まった。
渋谷でそのまま働いていいのかと思っていたら、そうではなかった。三鷹にあった支社に来週から行くようにと言われた。慣れ親しんだ場所を離れるのは、少しショックでもあった。
そして更にショックに追い打ちをかけたのは、三鷹に行ってみると、渋谷の本社とはまったく開発案件の毛色が違ったということだった。
最初に入ったチームはファームウェア開発の仕事だった。
当時出たばかりのWindowsでビジュアルな開発環境をさくさくと使う。そんな漠然とした夢がついえた。
コンピューターが0と1の世界であることも知らずに入ったのだから、何がなんだか理解ができなかった。おぼろげな記憶しかなく、今説明しようと思っても難しい。少なくともWindows環境での開発でもUNIX環境でもなかった。独自OSだったのかもしれない。
プログラムはテキストにC言語で書き、ROMやRAMに焼いたプログラムを実行する。基盤にそっとそれを差し込むのは私の重大な仕事の1つだった。テストはBASICで書き、黒い画面にコマンドを打つ。あれはエミュレーターだったのだと思う。デバッガもあったと思うが、レジスタの中をずらずらと表示するようなものだった。
今思えば、コンピュータシステムの基本を知るには最適なプロジェクトだったが、当時はそれがわからず、我が身の不運を嘆き、くさくさした気持ちになった。
教育係になった人は、それでも一生懸命、ビットの仕組みを教えてくれるが、何が何やらで理解できない。帰社した別チームの若い先輩男性がそんな私の様子を見て笑った。「え?もしかして、頭悪い?」
不思議なくらい、まったく腹も立たなかった。
なぜなら自分でもそう思っていた。
なぜこんなに言っていることが理解できないのだろう。
50歳になった今、人の教えを素直に聞いておけば良かったなと思っていることがある。
当時、周囲に情報処理試験の勉強をすすめられたのだ。情報処理2種の勉強をせよと。今でいう基本情報技術者試験である。でも日常で聞いている時点で既にアレルギーになっていた私は、「とんでもない」と拒絶してしまった。
教育係は中途採用で入った理系の大学出身の人だったので、その人との自分の差、向き不向きの差、というものをとても意識してしまった。
私は小さい頃から算数や数学が苦手だった。高校に入った時にどうしてもこれ以上数学を勉強したくなくて、反対する家族に逆らって、さっさと文系科目で受験可能な大学に目標を絞ってしまったくらいである。教師にまで「もう数学は学びません」と宣言してしまうような高校生だった。
「あの時サボったツケがきたんだな」
この思いを、そのあと10年以上捨てることができなかった。
しかしシステムエンジニアの仕事は、高度に数学的な領域は別として、そんなに難しいことではない。ある程度の範囲までは、訓練すれば誰にでもできる仕事だと思っている。受験の数学のほうがよほど難しい。
「数学ができる人しかこの仕事は向かない」
この自分で自分にかけた呪いに悩まされた時間は、あまりにも長かった。正直後悔している。さっさと情報処理2種の勉強でもしていれば、手がかりはあったのに。
しかし気の強いところのある私は「こういうことが私のやりたいことじゃない」とも思っていた。
巷に出ているコンピューター関連の雑誌を買ったり、そこに書かれたクライアントサーバー開発の事例など読んだりしていた。
おそらく1つも意味は理解していなかった。なぜなら基本を飛びこしてしまっていたからだ。でも「こういうことをやりたいんだ。真っ暗な画面にコマンドを打つなんて嫌なんだ」と、どこかに必死でアピールしていた。
プロジェクトの終了
一方で実際のコンピューターを触るのは相変わらず怖かった。
チームメンバーの男性社員に「プログラム書いて実行してみる?」と言われても、首を横にふった。
「私が何かしたら壊れませんか?」。笑われたが、本気でそう思っていた。
そのプロジェクトに参加している間は、テスターとしてテストを行っている時間がほとんどだった。後で経歴書を見たら、この期間が3年もあった。3年もあったら1人前のプログラマーになるには十分な時間だ。あの間、わたしは何をやっていたのだろう。
何ともパッとしない思い出しかないが、人生の先輩というものはよくわかっているものだなと、後日思い返すエピソードもあった。
顧客のメーカーは遠方の人で、東京に来た時に打ち合わせをする。その議事録を書いたことが何度かあった。ある時、客先のマネージャーに「あなたが書いた議事録が一番わかりやすいですね。」と言われた。
これはその後もずっと、行く先々で言われたことである。
議事録の書き方を誰かに教えてもらったり、指導してもらったりした記憶は特にない。人には当たり前に息を吸うようにできることと、努力しないとできないことがある。どちらを選ぶかはその人次第だ。
もう1つは私の教育係だった女性に「あなたはプロジェクトリーダーやプロジェクトマネージャーが向いているよ」と言われたことだ。
理由を聞くと、「人の上に立つ人、選ばれた人の香りがするから」と、占い師みたいなことを言う。プログラムもろくに書けない私に、なんて寝ぼけたことを言っているのだろうと苦笑した。でもこれも、後年思い出すことになった。
色々なことが重なり、このプロジェクトは失敗して、最後は瓦解することになる。
それだけが原因ではないけれど、わたしは体調を崩しがちになった。学生時代は罹っていなかった病気に立て続けになった。肌も人生最大に荒れた。
プロジェクトが瀕死の状態だった頃、「プログラム実行してみる?」と言ってくれた優しい大柄の男性と2人だけのチームになっていた。実際にプログラムを書くのはその人だけである。申し訳なくて、よく一緒に夜10時過ぎまで残っていた。
3年の間に、支社が三鷹から恵比寿に移っていた。
「帰るよー」と言われて「はーい」と返事をする。
夜9時や10時も回って会社を出ると、外にはランボルギーニやフェラーリといった外車がずらずらと路駐している。音楽プロダクションのスタジオの前を通り、独り暮らし用マンションの前を通る。まったく場所の華やかさと自分たちはかみ合わないまま、夜道を駅までとぼとぼ歩いた。
プロジェクトが失敗して納品ができなかった時に、開発ってこういうことなんだとわかった。
納品しないとすべては終わりだということ、顧客に責任を追及されるものだということ。チームの末端にいた私でさえ、それはうっすらとわかったのだ。
次回に続く。
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