文字を持たなかった昭和 二百六十六(手前味噌、後編)

 昭和中期の鹿児島の農村、昭和5(1930)年生まれのミヨ子(母)を中心に、自らについて語る機会も術もなかった庶民の暮らしぶりを書いている。冬の暮らしについて、前編中編に続き味噌の仕込みについて書いておく。

 中編では主に、九州で広く食される――鹿児島では間違いなくこれだ――麦味噌の、主原料となる麦麹の作り方を書いた。もちろんまだ味噌にはなっていない。

 一日半くらいかけて麦に麹菌を繫殖させるのと並行して、麦麹とともに仕込む大豆を用意する。以後の工程は次のような感じだ。なお材料の割合については前編で、ミヨ子たちが仕込んでいた分量については中編で触れている。

(1)大豆を一晩水に漬ける。
(2)大豆の水を切り、柔らかくなるまで蒸籠で3時間ほど蒸す。
 ミヨ子たちは、大豆も麦と同じように簡易式の竈(かまど)を庭先に出し、薪で起こした火で羽釜に湯を沸かし、木製の大きな蒸籠(せいろ)に布を敷いて蒸していた。
(3)指で潰れるほど柔らかく蒸しあがった大豆を潰す。ここで塩も搗きこんで混ぜる(と記憶する)。
 ここは夫の二夫(つぎお。父)の出番だった。餅つきと同じように、予めきれいに洗っておいた石臼を切り株の上に安定させ、杵で潰していくのだ。いま家庭で手作りする味噌ならフードプロセッサーなどで潰すのだろうが、なにせ量が違う。それに、当時は便利な機械もなかった。
(4)(3)の大豆と、別に作っておいた麦麹を混ぜる。

 この段階で全体の量が見えるわけだが、相当な分量になるので、混ぜる容器もかなり大型である必要がある。が、二三四はどんな容器を使っていたか思い出せない。のちにプラスチック製品が出回るようになると、大型の洗い桶などを使った気もするが、姑のハル(祖母)の生前はプラスチック製品は使っていなかったはずなのだ。
(5)(4)を丸めて味噌玉を作る。
 余分な空気が入らないようしっかり握りながらこぶし大にまるめていく。
(6)味噌を仕込む容器に塩を振っておく。これは殺菌と醗酵抑制のためだと思う。
(7)(6)に(5)の味噌玉を詰めていく。ここでも空気が入らないようみっちり詰め込む。
(8)詰め終わった(7)の表面をきっちり均し、振り塩をする。
(9)容器に蓋をして醗酵を待つ。通常2~3か月で食べられるようになる、らしい。

――とまあ、麦を水に浸すところから数えると4、5日もかかる大仕事だ。しかし、農閑期の家族総出のイベントと考えられなくもない。たくさん仕込む家なら、近所の人も手伝ってしゃべりながら賑やかに取り組んだだろう。

 そう言えば、麦や大豆が蒸し上がる間、手伝いの人とお茶を飲みながら世間話をしたことを思い出す。大豆は蒸す時間が長いので、脇にサツマイモなどを入れていっしょにふかし、お茶請けにしたりもしていた。

 イモもさることながら、やわらかく蒸した大豆は、何も味がついてなくても甘くて食べやすく、蒸籠から臼に移したばかりの熱々の大豆をつまみ食いするのが大好きだったことも思い出す。

《補足》
 「手前味噌」仕込みのプロセスについては、『life-repo.com 』の記事がとても参考になった。記事では「たまたま」見学した鹿児島の親戚の味噌づくりの様子が写真つきで詳述されている。中編で「しょけ」と説明した特大のザルの写真もある。作り手の女性たちの年を重ねた手元に、二三四の目に映っていた母や二人の祖母の手が重なり、しばしタイムワープさせてもらった。謝意とともに補足します。


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