このところ、帰省のついでに立ち寄った屋久島でのあれこれをいくつか書いた。今回屋久島在住の叔母のお世話になったことも触れた。 この叔母は、ここnoteのミヨ子さん(母)のストーリーに時々登場してきた、ミヨ子さんのいちばん下のすみちゃんである。20歳年が違うから今年(2024年)で74歳、ぎりぎり前期高齢者だ。 22歳で屋久島にお嫁に来てからずいぶんと苦労した。ここで「ようだ」とか「らしい」と書かないのは、子供だったわたしでさえすみちゃんの苦労話をオンタイムで知っていた
帰省のついでに郷里の海岸を見に行った。 吹上浜と言って、子どもの頃は日本三大砂丘のひとつと言われていた。あとのふたつは鳥取砂丘と静岡の遠州灘砂丘らしいが、どう見てもこのふたつのほうが規模も知名度も大きい。 その砂浜に大人になってから訪れる度、砂浜がずいぶん狭くなり、波打ち際が陸側に迫ってきたと感じる。 子どもの目からは浜が広く、波打ち際が遠く感じたというのもあるだろうが、それにしても狭い。波消しのテトラポットが置かれたのはかなり前だが、それもだいぶ沖側に「動いた」ように
またまた屋久島、それもまた栗生(くりお)の話題。 前項で栗生在住の叔母に案内してもらい、集落を散策したことを述べた。その際旧街道も歩いた。 島の北部から東部を回り、南部までをぐるりとカバーするのがメイン道路の県道だ。一方、島の沿岸部に飛び飛びで存在する集落には、それぞれメインストリートがあるようだ。それが旧街道で、概ね県道より一本海側にある狭めの道だ。 そもそも人が徒歩で、せいぜい牛が荷車を引いていた頃の道だから、狭いのは当然だ。車1台が通れる幅だろうか。 栗生の旧街
今回も屋久島の話題である。 島南部の小さな集落・栗生(くりお)にある叔母宅に泊まらせてもらったことは、前項で述べた。 多くの来島者にとって、ここは大川(おおこ)の滝ぐらいしか見どころがないかもしれず、車を走らせていても、南端に近い尾ノ間(おのあいだ)から先、交通量はがくんと減る。 しかし、屋久島の歴史において栗生はかなり早くに開け、重要な役割を果たしてきたらしいことを、今回初めて認識した。 史跡というほど整備されたものはあまりないのだが、海側にある墓地は独特だ。江戸時
前ふたつのつぶやきの通り、屋久島に来た。 到着1日め、予習を兼ね、北部の主要な街で島の中心地でもある宮之浦の、屋久島町歴史資料館へ行った。 知らない街を訪れたらこの手の施設にはよく行っているが、地元の熱意と展示効果には隔たりがあることも時々あり、正直なところここにも大きな期待は持っていなかった。 展示は手作り感満載で、ある意味微笑ましい。しかし、というか、離島という特性からか、歴史がユニークで文化、習俗には多様性があり、台湾にも似た個性が感じられた。 ひとつひとつのコ
(①より続く) ポンカン原木は、屋久島南部の平内(ひらうち)集落にある。 屋久島をぐるりと取り巻くような県道から少し入った場所にあるはずだが、その入口に当たる地点には何の案内もなく,実は①に載せた顕彰碑までけっこう迷った。 碑が見つかったあとも、肝心の原木への案内はないのでそこからも難儀した。 事前に観光協会で聞いた情報では、原木は個人の農園の中にあるが見学はいつでも可能で、農園経営者宅にお断りすればよい、ということだけ。 碑から先に車を進めたら、個人宅の敷地の入口に
帰省のついでに屋久島まで来た。位置関係からも費用からも、ついでに立ち寄るというような場所ではないのだが、ここはどうしても鹿児島が起点になるので、帰省とセットにしないともったいないのも事実。 屋久島は3回目で、前回から5年以上は経っている。主な目的はここに住む叔母に会うことだが、当然いろいろな場所も訪れてみたかった。 そのひとつが、日本のポンカン栽培の始まりとなった原木を見学することだった。 日本でのポンカン栽培の起源は明治29年(1896)年。初代台湾総督樺山資紀が、ポ
元気で会えるうちに、とまたミヨ子さん(母)の様子を見に行くことにした。 noteが中断するのは悔しいが、今回は事前に休む間分のストックを用意するのが間に合わなかった。 もしかすると途中で何かつぶやくかもしれない。
(前編より続く) わたし自身、終活準備としてもう数年前から不用品買取などの情報に気をつけてはいたが、あるサイトで、地域限定に近い不用品のやりとりをサポートしていることを知った。そこに実際に登録するのまでにかなりの期間を要したものの、「今年中に手放す」という目標をクリアすることに決めて、サイトにこの子を登録したのであった。 このサイトは自分で値段を決めて物品などの情報や写真を公開し、興味を持った人と連絡を取り合いながら、譲る相手を決めていく形だ。思いがけずこの子にも数人の
以前の「つぶやき」の「あるお別れ」で触れたとおり、わたしは数年前から身の回りの片づけを意識している。一種の終活と言っていいと思う。 「あるお別れ」で触れたものは、今年片づけたいものの筆頭だった。それを「1」とカウントすることにして、その次に今年中に手放したいと思っていたのが本項で述べる卓袱台であった。 この「子」は、ずいぶん前の引っ越し祝いに、自分の親とおなじくらい年上の知人から贈られたものだった。卓面は丸く、脚は折り畳める。昭和の家庭を描くテレビドラマに出てくるよ
(「97 耕運機に乗る」より続く) 明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語である。 昭和30年代の初め、一人息子の二夫(つぎお。父)が主導し吉太郎一家は耕運機を購入した。倹約家の吉太郎自身は気乗りしなかったが、使ってみたらやはり便利で、作業や運搬の効率も上がった。 吉太郎の孫娘の二三四(わたし)は、これらの経緯を綴りながらふと考えた。 耕運機を買うまでは、実際のところどうやって物を運んだり、田畑を耕したりしていた
(「96 耕運機を買う」より続く) 明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語である。 昭和30年代の初め、吉太郎一家は耕運機を購入した《URL979》。倹約家の吉太郎自身は気乗りしなかったが、一人息子の二夫(つぎお。父)が主導して決めた。 開墾が終わって幼木を植えたミカン山へも、それまでのような徒歩ではなく、二夫が運転する耕運機の荷台に家族全員が乗って行くようになった。70代半ばになった吉太郎も山まではいっしょに行き、
明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語である。 昭和の初め、中年の再婚どうしで家庭を持った吉太郎。昭和3(1928)年生れの一人息子・二夫(つぎお。父)は、戦時中親の意に反して学業半ばで少年飛行兵に志願、入隊入隊したが、幸い復員。昭和29(1954)年同じ集落の娘・ミヨ子(母)を嫁に迎えた。戦後日本が高度経済成長を続ける中、農作物も換金性の高い――流行の、とも言える――果物が注目され始め、吉太郎たちの地域ではミカンの栽
(②より続く) 昭和30(1955)年頃。明治生まれの吉太郎(祖父)一家がミカン栽培を始めるため、山林の開墾に勤しむ中、嫁のミヨ子(母)は最初の子を身ごもった。ミヨ子には軽い作業をあてがい、吉太郎たちとしてはそれなりに体を大事にしてやったつもりでいた。 ミヨ子の実家は同じ集落にあった。臨月のミヨ子は何の用事か実家を訪ねていたときに、破水した。本人はおしっこを漏らしたと思い、側にいた母親のハツノ(母方の祖母)にそう言ったが、10人近い子供を産んだハツノは破水に違いないとす
(①より続く) 昭和30(1955)年頃。明治生まれの吉太郎(祖父)一家は新たにミカン栽培を始めるため、果樹を植える畑の整地から着手した。 はじめは山林の開墾からだ。老齢に入った吉太郎には堪える作業だったが、毎日のように山に足を運んだ。9歳下の妻のハル(祖母)はもとより勝気で体も丈夫だったから吉太郎と同じくらい働いたが、ハルも60歳半ばになっており、一家にとっての負担はけして軽くなかった。 幸いというか、一人息子の二夫(つぎお。父)は吉太郎夫婦がもともと晩婚で遅く生
明治13(1880)年鹿児島の農村に生れ、6人きょうだいの五男だった吉太郎(祖父)の物語を綴っている。 昭和の初め、中年の再婚どうしで家庭を持った吉太郎。昭和3(1928)年生れの一人息子・二夫(つぎお。父)には百姓の跡継ぎとして早くいっしょに仕事をしてほしかったが、上級の農芸学校まで進んだ挙句、卒業も近い昭和19(1944)年、親の意に反し学業半ばで陸軍の少年飛行兵に志願、入隊入隊したが、幸い復員。昭和29(1954)年同じ集落の娘・ミヨ子(母)を嫁に迎え、一家は四