10.夢みたい、夢じゃない:「好きなページはありますか。」ショートストーリー集
「どうやってアポとったのって、企画を出すからには絶対に会いに行く覚悟で動きますよ。企画ポシャッたら困るのは御社じゃないですか~」
嫌味ととられないよう声色に気を配りながら、スマートフォン越しの相手に余裕を示す。本当は、なかなか苦労した案件だったけれど。
A新聞で文化部デスクを務めている反町さんは、電話向こうで「いや~、北野さんはやっぱり違うわ」と、聞こえよがしに漏らしている。彼とは長い付き合いだし何度も会食に行っている仲だけれど、どこがどのように誰と違うのかということは一度も聞いたことがない。団塊世代生まれの男性にありがちな、とりあえずの世間口上というところかもしれない。
「あれ、北野さんもう宮崎?」
「去年の夏から来てますよ。あ、福岡のアトリエは残していますんで郵送物の住所はお気遣いなく……」
「いいねぇ~、宮崎!あったかいんでしょう?南国のマンゴーに、ヤシの木に……えぇと、あとはなんだっけな」
「チキン南蛮?」
「それよぉ!それそれ。揚げる前に卵と甘酢ダレをくぐらせないと宮崎追い出されるらしいから気をつけなよ」
反町さんの、よく知ってるのかテキトウなのか判然としない宮崎情報をあと三つくらい聞かされたところで、通話は終わった。
彼が「どうやってアポとったの?」と驚いた相手は、本屋大賞に3年連続でノミネートされた小説家の先生だ。作品を読み感銘を受けたので巻末プロフィールを見たところ「宮崎本大賞」という宮崎の地元書店や図書館の関係者が運営している賞を受賞しており、宮崎とはご縁があるらしい。
ちょうど福岡から宮崎への引っ越し作業にあたっていた私はこれも何かの縁かもしれないと思い、宮崎という土地や宮崎本大賞が先生にもたらした影響を尋ねてみたくなった。それも2023年本屋大賞発表の直前という、彼女にとっての悲願達成(悲願かどうかはあくまでこちらの想像にすぎないのだけれど)が成るか成らぬかとタイミングで、あえて「原点」(これもまだ、私の想像にすぎない)である宮崎本大賞のことを訊いてみるという企画だ。
「この取材を通じて、私自身の『宮崎像』を研ぎ澄ましたい」
私は今年51歳になる。「終の棲家」という言葉も脳裏をよぎるなかパートナーと共に引っ越しをする身としては、引っ越し先のことを事務的にも概念的にも形而上的にも知り尽くしておきたかった。
知り尽くすべきなのだ。
そんな私情も乗せて企画したインタビュー記事が、半年を経てようやく実現へ動き始めた。企画書の中身を反芻しながら、今は宮崎市内に購入したマンションでインタビューのシミュレーションを試みている。
大淀川を臨むバルコニーであびる風は2月の末と思えないほどにあたたかく心地よかったけれど、それをもってしても昨日の所業をかき消すことはできない。風美のやつ、私が芋焼酎苦手なの忘れてたのかしら。
焼酎バーという「ニシタチ」(西橘通の周辺にある宮崎市内の繁華街をこう呼ぶ)らしい店で撃沈した私は、その後どこをどう通り何時に帰ったかもわからないままで今に至っている。
もちろん風美が、担ぐようにしてタクシーで連れて帰ってくれたのだろう。私のガタイは重かっただろうが、飲ませた彼女も悪い。
朝目覚めてベッドサイドテーブルを見ると、彼女の字で「とにかくカンキツ系が効くよ!執筆しにカフェにでも出てくる」というメモが置いてある。用紙を抑えるため、また私の二日酔いを撃退するために日向夏ソーダのペットボトルが置いてあった。わざわざ一度コンビニに行って、買って来てくれたのかもしれない。
ご厚意には深謝するけれど、日向夏ソーダであっても常夏ミカンアイスであっても何であっても、この二日酔いを消すことはできない。口に含んだほろ甘い「はずの」炭酸は、昨日よく知りもせずに飲んだ焼酎ハイボールの味がした。蒸留酒は蒸留酒でも、私はめっぽうウィスキー派なのだ。
大淀川沿いの遊歩道では私と真反対に健康的な人々がランニングをしていて、地上を歩く彼らの動きを目で追っていると、罪悪感やら何やらが胸をさかのぼってくる。もう、シミュレーションどころではない。
風美と宮崎で過ごし始めてから約半年。付き合いはじめてから20年になる。
そんな当たり前の計算をしながらふと過去を振り返り、私たちの来し方は当たり前のものではなかったなとかすむ視界を通してぼうと考える。
二日酔いの最中で探る彼女との再会の日の記憶は、不鮮明な頭に似つかわしくなく鮮やかだ。それは、私の半世紀にわたる人生のなかでも極上の一ページなのだから。
***
彼女が大学生で、私は宮崎での高校務めを辞めて故郷の福岡でふらふらとした仕事に就いていたあの日。2月のはじめに映画『メタモルフォーゼ:旅の友たち』を観たあの日。映画の余韻を身にまとったままこの世の物語へと踏み出した私たちは、生徒と教師ではなく女と女として話し合った。風美のほうは、まだ少女と言ったほうがいい年齢だったけれど。
「どうして受験前の合宿で深夜にうろつくわたしを、さつき先生は叱らなかったんですか?」
「いいよもう、さっちゃんで。受験前の合宿って、あれか……?ミヤカンの?」
「懐かしい!ミヤカン、宮崎観光ホテル。あれから泊まったことないなぁ……」
1……2……3……。リズミカルと言えるくらいに意図的な間があった。
「ねぇさっちゃん。どうしてあの日……」
「叱らなかったか?」
風美は静かに首を横に振った。
「ちょっと、泣いていたの?たぶん泣いていましたよね?」
「どうだろう。私は、ただ……」
今度は、不器用で取り繕いようのない間が生まれてしまった。
あの日私は、エレベーターから降りてきた風美を見てとっさに「こんなに素敵な人とずっと一緒にいられたら」と願った。それと同時に「そんなことは叶わない、絶対に」ということも悟った。
教師と生徒であり、一人の女と一人の少女だ。叶うはずがない。
生活指導を担当していた学年だから、河野風美が学校内に存在することは知っていた。おとなしい彼女は問題を起こすことも華美な服装をして生活指導の対象となることもなく、面と向かって話す機会はなかった。
あの夜、私は細くなりすぎた自分の神経を継ぎ接ぎするためにホテルのロビーにいた。幼い頃から続けてきた、才能があったのかなかったのかも分からないまま活躍のステージに至ってしまった柔道のせいでついたイメージを保つのは、もう限界だった。
妖怪と呼ばれようが男だと言われようがかまわない。ただ「強く見せ続けなければならない」ことの厳しさを誰とも分かちあえず辛かった。生徒たちや他の若手の先生を威圧するため無理矢理口にする宮崎弁はどこか滑稽で、自分でも「こりゃ下手な小説家の台詞みたいだな」と思うことがあった。
それでも、私は強い北野さつきでいなければならなかった。
そんな滑稽なほどに頑強なヴェールを傍らに脱ぎ置いて、私は深夜に差し掛かる宮崎随一のホテルロビーで一息ついていた。自宅でもない、職員室でもない、他人しかいないその場所はなぜか私の気持ちをオープンにさせた。観光のせいなのか、浮かれた声で騒ぐ客たちの声が遠目に聞こえるのがかえって良かった。
そこに風美が降りてきた。
もしかすると本当に私は泣いていたのかもしれない。涙が頬を伝う感覚なんて、とうに失っていたから。でもかろうじて、まだあの時は、私は生徒である彼女の前に立つために取り繕った強さのヴェールを被り直していたはずだ。
彼女が私の前で怯えているようだったのが辛かった。こんなに愛らしいと思うのに、一人の人間として彼女にそう伝えられないことは耐え難かった。
風美に対して抱くほどではないけれど、それまでにも似たような愛らしいという気持ちを柔道仲間やクラスメイトに懐くことはあった。そしてその度に、目に見えなかったはずだった数々の桎梏が私を捕らえた。
「可愛いね」
本当に可愛いと思う相手に対して、まるで上辺だけのように装いながら軽々しく伝えなければならないその一般的な形容詞は、発する度に私の神経をきつく縛り上げた。
あのホテルのロビーでも、風美を目の前にして伝えられない数々のことばが私を苦しめていた。私たちは女と少女であり、教師と生徒であり、歳の差も10離れていた。二人の間には隔たりの理由ばかりが並んでいた。どんな事実を掛け合わせても、風美の人生と私の人生とが彼女の高校卒業後に絡みあうことはないと結論づけられるようで、そのことはひしひしと私の胸を狭くした。
―――あの一冊がなければ。
かなしさを気取られぬよう話題を探そうとして彼女の持ち物に目をやると、そこには見慣れぬ表紙の、見慣れたタイトルがあった。
『変身記』
私が小学校の時大好きだった先生が職員室の机にずっと大切そうに置いていた一冊。私はその一冊をとおして、ほんとうの意味での読書というものを初めて知ったのだと思う。拙い読解力ながらに書いた読書感想文が先生に褒められたことが嬉しくて、それから何度も何度も読み返した一冊。
文庫が出ているなんて知らなくて、すぐには気がつかなかった。私の大好きな一冊を、私が愛らしく思う人が手に持っている。それだけで十分だった。
彼女が「御守り」だと言った『変身記』を私も愛し続けること。それは、私にとってもかけがえのない御守りになった。
―――「あの『変身記』映画化作品が、米上映後まもなく2002年2月に映画化!」
そんな地下鉄の中吊り広告を見たとき、私の心はときめいた。当たり前の宣伝文句が、私だけに宛てられた招待状のように思えたのだ。
初日に行かなくちゃ、絶対。
もう宮崎の地を離れ地元福岡に住んでいたのだけれど、とにかく映画館に行かなければという欲動に駆られた。
私は当時勤めていたローカルタウン誌の会社からほど近くにあるキャナルシティ博多の映画館に、なんとか取材の都合をつけて休みをとり駆け込んだ。上映間際ぎりぎりに購入した席は「前から3列目の左から二番目」。首が痛くなりそうなので、レイトショーでまたいい席をとろうと思ったことを覚えている。
御守りのおかげだろうか、その悪席のチケットは私たちの人生を再びより合わせてくれた。
息を弾ませながら劇場内に入るときに、前から3列目の左端に座る人の輪郭がスクリーンの光でぼんやりと浮かんだ。それが風美だというほとんど100点の確信が私にはあったけれどなんとか叫びださずにいられたのは、彼女が映画を楽しむのを邪魔したくなかったからだし、私たちの再会は既に始まっているという確証に近い予感があったからだ。
時が駆け出す、音がした。
映画が終わり彼女の手をとり歩いた喫茶店までの道のりのことはよく覚えていないけれど、お互い無言なのに無限の思いを交わし合ったような刹那刹那の積み重なりだったという感覚だけが残されている。
「どうだろう。私は、ただ……」
風美がキャナルシティ博多すぐそばの喫茶店で私にかつての涙の理由を尋ねたとき、私は寸時答えに窮してしまった。
でも、伝えたいことばは単純で素直なものだ。ずっと伝えたかった三年越しの気持ちは、生徒でもなんでもない彼女と向き合う私の口からはするすると繰り出された。
「前のことは、いいじゃん。風美、可愛くなったね」
「なにそれ。さっちゃんも、昔より可愛くなったね」
「言うようになったね」
ちょっと目を丸くして、おどけてみせる。
「だって、もう大人だもん」
同じような仕草をしてみせる風美に対して懐く感情は、今更名づけずとも明らかに恋そのものだった。
いやそれは、恋なんて名づけてしまうことが憚られるほどの心持ちだった。
「物語のページみたいに、好きだと言えたら楽なのに」
私がぼそりとつぶやいたその言葉を聞いた風美は、おどけるでも茶化すでもなく私に神経を注いでいた。
「さっちゃん、好きなページ、変わってなかったね」
映画上映中に思わず声が漏れるタイミングが重なった『変身記』のあの台詞のことを言っているのだとわかる。
「変わってないよ。ずっと、これからも」
店内では『アゲハ蝶』が流れていた。2001年の夏ぐらいから一年ぐらいの間はずっと、私はあらゆる場所で岡野昭仁の歌声を聴き続けていたと思う。
―――「いま、夢じゃないよね」
風美が、歌詞を聴きながらなのかそう言った。
頬が熱く熱く濡れていたし彼女の顔もよく見えなかったけれど、それはきっとお互い同じだろうことが震える声色でわかった。
「夢みたいだけれど、夢じゃない」
2月の暮れなずむ空は混ざりきらない絵の具みたいにぼやりとして、喫茶店の騒がしさの中にも何一つとしてくっきりとした音がなかった。
私たちはただ相手のことばだけを頼りに現実味を確認しあうことができるような曖昧な空気の中で呼吸し、嗚咽し、そうして二人の時間を刻一刻と早回しするみたいに生きている時間がたまらなく嬉しかった。
二人の時間は、二人の早さで駆けてゆく。
***
スマートフォンからラインの着信音が鳴っている。
福岡で再会したばかりの頃の生活を回想していた私は、ゆったりと記憶の向こうから引き戻される。ラインで電話をしてくる相手は風美くらいだ。急ぐ必要はない。
しばし忘れられていた頭痛と焼酎の気配に嫌気がさしつつ、電話に出る。
「さっちゃん、二日酔いなおった?吐いた?」
やけに楽しそうな声ではしゃぐ風美も、もう四十歳を超える。いつまでも私よりは若いはずだけれど、お互いもうおばさんと言っていい歳だ。
「きつい。日向夏ソーダもサワーかと思うくらい口の中がずっと焼酎の味。勘弁してよもう」
「自分で飲んだんじゃない、わたし知らないよ~」
ははは、と笑いながら風美が言う。声色から、原稿はあがったのだろうと察することができた。
映画館で再会してから3年後、タウン誌の会社から独立した私と、大学を卒業したものの企業への就職を躊躇っていた風美は、共同してユニットを立ち上げた。
フリーライターだったら一人でこなすようなところだけれど、私たちはライター業務をカスタマーワークとクリエイティブワークとに分けて二人一組のライターズ・ユニットとしての活動を始めた。つまるところ、企画立案から案件獲得、アポ取りや取材までを私がこなし、記事の執筆は風美が受け持った。
タウン誌時代に細々と培った企画・取材のノウハウが生きた。一人で回る営業は孤独だったけれど、ライターズ・ユニットとして立ち回る仕事は魅力と活力に満ち溢れていた。柔道や教師といったタフな生活を経るなかで養われた押しの力と交渉術を駆使することも、風美と一緒ならば楽しかった。
風美は風美で、取材に同行した時は良い聞き手となり記事のコアとなるような名言を語り手から引き出した。執筆についても、なめらかでいながら緩急を効かせた文体が紙媒体でもウェブ記事でも顧客の評判を呼んだ。
―――あなたの「好きなページ」を生むために。
雑誌の「ページ」、書籍の「ページ」、ウェブ「ページ」。私たちのライターズ・ユニット「好きなページ」はこうしていくらかの定評を得ながら、もうすぐ結成二十年を迎えようとしている。
「体調辛いところ悪いんだけどさ、またお父さんがパソコン教えろって言うから行ってきていい?また夕飯食べてけって言われるかも」
「すごいね、本当にnote更新始めるんだ。翻訳も進んでるのかな?」
「メモ紙の束やら研究本やらが部屋の中にびっっっしり!わたし、何のために去年の夏汗だらだらになりながら断捨離したのよ~」
風美のお父さんと私は、実は風美よりも早く出逢っている。
小学校二年生の頃、まだ私たち家族が宮崎に転勤する前に福岡で通っていたクラスの担任が、河野保志先生だった。『変身記』を私に伝え、ことばの魅力を教えてくれた先生だ。
「これから宮崎で一緒に暮らす人」としてご実家へ挨拶に伺ったとき、驚くことに河野先生は私を一目見ただけで「もしやお会いしたことがありますか?」と言った。四十年以上経っているというのに、どこからどうして勘づいたというのか不思議でならない。
あともう一つ不思議なのが、私が北野さつきであると述べたところ「おお、やっぱり先生か!」と河野先生がおっしゃったことだ。
あとで風美に高校でのことをよくお父さんと話すのかと訊いたところ「一度もさっちゃんのことを話したことはない」とのことだった。
なぜ私が風美の「先生」であったと知っていたのか。風美の考えは「ちょっと痴呆も入っているみたいだから」というものだったけれど、四十年以上前の教え子の顔を即座に思い返すことができるという明晰さとの格差が大きすぎると私は思う。それに加えて、私が懐く河野先生のやわらかなイメージと、風美が話す頑固で融通の利かないオヤジ像とは天と地ほどの隔たりがあった。
実際に会ってみる前に「娘よりも十歳年上の女」とこれから過ごすことをどう思っているのか、福岡のマンションの室内で私はやんわりと風美に訊いてみた。
「まだ、さっちゃんが女の人ってこと言ってないのよね」
「えっ、それで五十の女がいきなり現れて大丈夫?」
「うーん、話すタイミングがないというかなんと言うか。多分もう興味がないのよね、娘のことに。どうでもいいんやと思う」
前々から風美はお父さんのことを話すときに多少投げやりな様子だったけれど、いざ私を会わせるという段になるとその気配は更に増した。
「まだ言ってない」ことについては、私にも納得できた。私だって両親には話していない。
「結婚しないんですか?」
「お綺麗なのに、どうしてですかねぇ」
「世の中の男性の見る目が無いんですよ、ほんと」
「『好きなページ』のお二人だったら絶対いい相手いますって!紹介しましょうか今度?」
いくつもの反論を「えぇ、まぁ」という返しをするだけで飲み込んできた。社会でいくらLGBTQを認めようと運動が起こったところで、普段それを意識しない状況での会話は無意識に辛辣だ。
「LGBTQを認めよう」という言説自体が、暴力的にまでに問題の核心に対して無自覚だ。私たちは誰にだって認められる必要はないし、それを望むこともない。
そんな世間なので別に家族というかたちにこだわることもなく暮らしてきたけれど、宮崎市に引っ越す際に市のホームページを見ていたところ、2019年からパートナーシップ宣誓制度が導入されていることを知った。
いざ引っ越しをして戸籍を移すとなると、そうした宣誓制度も活用してみようかという気になる。そしていざ「結婚」に類する催しを意識すると、せめて近くに住まう風美のお父さんだけにでも報告したほうがいいんじゃないかという話になった。
様々な心配や気苦労をしながら迎えた「実家訪問」の日だったけれど、私が北野さつきだと知った後の河野先生はとにかく「さつきさんなら良かった」としきりにニコニコ喜んでくれて、女同士のパートナーであることや宣誓制度のことを説明する隙も無かったくらいだ。
それが去年の夏のこと。もう、あれから半年くらいが過ぎた。
夏に風美が頑張って色々と片付けた実家だったけれど、今はお父さんがまた様々な本を買い込んだりノートが散らばったりして「元の木阿弥よ!」と彼女は怒っている。
「もう仕事をすることもないし『変身記』を翻訳しなおしてみようと思うんよ」
そう河野先生が言ったのは、2022年の秋だった。72歳。とても「ちょっと痴呆も入っているみたい」と娘に言われるお爺さんとは思われない。
「本格的に痴呆が進行しているんじゃないか」と風美が心配するのをよそに、河野先生は目を見張る精力をもって『変身記』の原典である'Metamorphoses'を読み解き、図書館で取り寄せたりネット通販で購入した研究書を左手にしきりにメモをとったりしていた。
「あれ、趣味の領域を超えてるよね……」
「模範的な生涯学習者だし、いいことなんじゃない?」
ぼそぼそと私たちが相談するのも耳に入らぬ様子で、宮崎の小さな戸建て住宅に住まう一人の老人は『変身記』を自らの作品として編みなおそうとしていた。
「翻訳進んでるんならさ、せっかくなら色んな人に見てもらったら?ライター仲間も結構やっているnoteみたいなブログサービスに掲載したら、素人さんでも思わず多くの人が読んでくれたりするし……」
そう提案したのは風美だった。
教師勤めをやめた後の職場でコンピューターを使っていたのか文字の入力や簡単な処理くらいはできた河野先生だけれど、いざインターネットの設定を自分で完結してブログサービスを使いアカウントを作成して……となると、手取り足取りの指導が必要となった。実家に呼ばれる度に風美は文句を言いながら出かけていくけれど、帰ってくるときはどこか清々しい感じがするから不思議だ。
なんだかんだと仲がいい二人を見ながら、私もたまにその輪に入ることができる今の生活に幸福感を感じる。
「今日の御飯、どうするつもり?」
「あれ、なんだっけ?ごめん」
回想に夢中になってしまい、電話の声を聞き取ることができていなかった。
「大丈夫~?酔っぱらったまま倒れたりしないでよ、もうトシなんだから」
「はいはい、はいはい」
その通りだ。私は五十を超えるし、彼女は四十を超えようとしている。
これまでに私が生きてきたのと同じ長さ程は、彼女と一緒にいられないだろう。
「風美」
「なに、さっちゃん」
何を言うのだったか、ぼうとした頭が軋む。二日酔いだけのせいではない、ぼやぼやとした何かが視界と思考を曇らせる。
「わたし今、幸せかもしれない」
年上なのに、ずっと幸せにさせてもらっているなと思う。
「奇遇。私も」
夫婦にも恋人にも友達にもできない在り方とやり方で、風美は私を幸せに笑わせてくれる。
「ゆっくり帰っておいでね」
「うん」
通話を切った後、今日の御飯とは昼食のことだったのか夕食のことだったのかと疑問に思い、苦笑する。
なんとかなるだろう。ただいまと帰ってきてくれたら、それでいい。
デッキチェアに身を沈め、2月とは思えない日差しを満喫する。
それはそうだ。ここは宮崎だし、何と言ってももうすぐ3月なのだ。
3月8日には宮崎本大賞が発表されて、4月12日には2023年本屋大賞が発表される。春らしい陽気に気を躍らせつつ、仕事のスイッチが入ってくる。宮崎本大賞受賞作家の先生へのインタビューについて、イメージトレーニングを積まなければいけない。
「やるかぁ、やらなくちゃ」
そう一声出して立ち上がり、私は日向夏ソーダを飲み下した。
まだ続いている頭痛は憎らしいけれど、大淀川を臨みながら飲み干す日向夏ソーダの味が現実であることを確かめられるのであれば、それほど悪いものでもないなと考え直した。
―――夢みたいだけど、夢じゃないんだ。
これは、私たちの物語。
私たちの物語の中の「好きなページ」は、私たち自身が紡いでいく現実なのだ。
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