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三宅ノート

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2015年1月の記事一覧

自分の価値を高めて、他人に与える。

自分の価値を高めて、他人に与える。

それは山を登って、降りるように、
登った分だけの価値を、人に与えることができる。

専門家になることもそれに似ていて、医者でも学者でも技術者でも、
孤独な山の登った分だけの価値を、人に与えることができる。

そして、多くを与えんとするものは、より多く傷つく者である。

僕のガンダムとニュータイプ論

特にファースト至上主義ではないのだけれど、ガンダムのファーストが傑作だと思っていて、特にニュータイプ理論「宇宙空間に出たスペースノイドの認識の拡大」という所が好きである。

知能構造の研究の立場に立てば、「認識の拡大」の対極にあるのは、「行動の展開」である。知能にとって、より高い能力とは、「より大きな空間、より長い時間」に自分の行動を展開できる能力である。

「ニュータイプでも、身体は同じだと思っ

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雨のように、捧げる。

雲は、自分の内に育んだものを、雨として、全身で他者のための注ぐ。
これは創作の姿勢そのものである。

何気なく見上げる空の浮かぶ雲は、僕たちにそれを教えてくれる。
芸術家は、科学者とは違う方向から自然の原理を深く探求し、自己の創作に活かさねばならない。

たとえ気が弱くても。

たぶん気の弱い人に共通することだけど、
自分のために何かを望むことが苦手だ。
持てる望みは少数で胸に秘めている。
そして生きるのが下手だ。

でも、自分が望んでも持ちきれない願いは、他人のために願えばいいのかな、と思う。

人のために願えば、それは自分の望みにも願いにもなる。

人生の真ん中がメインのグランドサーキットだとしたら...。

人生の真ん中がメインのグランドサーキットだとしたら、
娯楽というのは、それに隣接するショートサーキットだろう。

グランドサーキットの問題は重たく、時に途方に暮れる。
ショートサーキットは単純で行った行為分、代償が帰って来る。しかし、それはショートサーキットの中でしか通用しない。

ショートサーキットをぐるぐる回るのも面白いが、
相変わらず現実のメインサーキットを変化することはできない。

ショー

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哲学者たち。

人は言葉によって世界を支配しようとするが、世界は巨大な流れであり、繰り返しその手をすり抜けて行く。評論は芸術を捕まえようとするが、芸術もまた流れ行く現象である。僕らの本当の世界はロゴスの向こう側に流れている河であるのに、我々は言葉の内側に閉じこもって、折れた鉄塔の上で途方に暮れる。

モンテカルロ木探索 と TOTAL WAR: ROME II

TOTAL WAR : ROME II のAIでモンテカルロ木探索法(MCTS)が採用された。

モンテカルロ木探索は、90年代から囲碁AIに応用されて来た方法であるが、2006年頃に改良され(勝敗だけを取る)、囲碁AIに革命的進歩をもたらした。

その後、理論的基盤やさらなる(プレイアウトにおける)改良が加えられたが、基本的にはとてもシンプルな方法で、選んだ手の評価を、それ以降をランダムにシミュ

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この世界で可能性を尽くすことを選べ。

他人と勝負することより、
この世界に生まれて
自分の可能性を尽くすことの方がたいせつだ。
それは生きること、生かされていること、生まれて来れたこと、生んでくれたことへの感謝であるのだ。

そして、我々は争い合うためにこの世界にいるのではなく、
互いに認め合うためにここにいるのだ。

エヴァンゲリオンに寄せて

エヴァンゲリオンに寄せて

地上からまっすぐに大気が積み上がっている。

この世界はたくさんの層に覆われていて、
僕たちはこの大気の一番底で暮らしている。

幾重にも重なっている大気の層、
地球、太陽系、銀河系、銀河団、銀河団の銀河団... 

果てしない階層の、その最も内側の中で、
そして、我々の身体さえも柔らかな境界に囲まれて、

我々はここに在る。

境界には、願いが込められている。
それを産み出した人の願いがそこにあ

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震災から。

震災から20年。20年前、僕はセンター試験が終わって、芦屋の自宅にいた。あの時も、たくさんの家や街が壊れて、たくさんの人が苦しんだ。僕は19歳のガキで、何もわからず、地震や被害について随分と失礼なことを言った。あの時、一夜にして髪が真っ白になる程の苦しみを背負わされた人のつらさも悲しみもわかっていなかった。僕は自分のことだけしか見えないつまらないガキだった。だから、あの時の自分をあの時、傷つけたり

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センサーとは差異である。

行為を行う、ということは、センサーを張る、ということでもある。湖に石を投げれば、目と耳でその効果を見ようと湖面にセンサーを傾ける。そこに起こるイベントを拾おうとする。山びこを期待して声を張り上げる時もそうだ。そこに予想して起こる変化に集中する。

ゲームの本質。

ゲームというのは、行為と効果が閉じている世界である。(マジックサークル)

現実でこのサークルを閉じれるのは、スポーツや作業である。いわばこの心地良いサーキットがゲームの一つの本質である。

現実の世界ですべての円環を失えば、鬱や失調症になる。この円環を取り戻す力がゲームにはある。

知能とは。

知能は情報を自分のもとに集める。集めたものと知能は一体となる。

センサーはセンサーでない。センサーはそれが届く、アクセスできる空間を、
知能そのものの延長としてしまう。知能の内側に巻き込んでしまう。

つまり、こうして認識されている空間が、センサーそのものである。
自分そのものである。

そして知能は、各瞬間のその差異を検出し、行動を励起する。

時間は変化をもたらし、変化は差異を産み出し、差異

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認識とその形式、そして形式の差異、差分可能な形式。

認識をどう記述するか?そしてその差異をどう取るか?差異からどうやって行為を生成するか?

ある状況に対して行為が決定される。センサー各種が状況に認識から差異を作る。その差異が新しい行為を産む。

つまり認識の形式は差異を検出できる形式でなければならない。

認識が行為を産むのではなく、認識の変化が行為を産む。