僕のガンダムとニュータイプ論

特にファースト至上主義ではないのだけれど、ガンダムのファーストが傑作だと思っていて、特にニュータイプ理論「宇宙空間に出たスペースノイドの認識の拡大」という所が好きである。

知能構造の研究の立場に立てば、「認識の拡大」の対極にあるのは、「行動の展開」である。知能にとって、より高い能力とは、「より大きな空間、より長い時間」に自分の行動を展開できる能力である。

「ニュータイプでも、身体は同じだと思ったからだ!」というアムロがシャアに言うセリフはあるけれど、ガンダムのもう一つの道筋はそこにあって、ニュータイプは認識の拡大の次に、「身体の拡張」の方向に進むべきだったと、これは別にZガンダムがそうなればいいとか言うのではなくて、自分として想像したい方向という意味で、「認識の拡大」と「身体の拡張」を組み合すことが、ニュータイプは本来の姿だと思う。

モビルスーツこそは身体の拡張装置であって、それにファンネルがついて、ララァみたいな形で、より大きな空間と時間を支配する。あれが、ニュータイプの本来のあり方だと思う。ジオン=ダイクの思想によれば、本当は戦闘ではなく、より高いレベルの社会へ導くことがニュータイプのあり方だったはずだ。

だから、もし「ニュータイプ」というものを掘り下げることでガンダムの歴史が進んでいたとしたら、「身体の拡張」がどのように為されて行くか、それによってニュータイプが何を人類社会の中で行って行くべきか、を掘り下げるべきだと思う。

しかし新しいモビルスーツは、確かに性能はアップするのだけれど、その能力はかなり戦闘に特化していて、「ニュータイプ」という角度から描かれていない。

逆襲のシャアでは、アムロとサイコフレームの力は人類を救う光となったし、
ガンダム00のせつなは、劇場版でより高次の人間として帰って来る。

ガンダムに見え隠れする身体拡張の方向と可能性、つまり、より大きな空間と時間に支配する行動を展開する能力は、より大きな結果を示している、

ニュータイプの「拡大された認識能力」と「拡張された身体能力」の両輪によって、ニュータイプにはどんな働きが可能なのか、人類社会の中で何を変えて行くことが可能なのかを、僕は考えたいと思う。

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