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河童の話。(2)
他の子どもたちがキュリー先生に心をゆるしても、シマ子だけは先生のことを信頼できずにいた。目の前で、傷の手当てをしたりお腹の痛みをやわらげるのを見ても、シマ子には納得できないことがあった。
(なぜ皆は、キュリー先生がカッパかどうか気にならないのだろう?)
シマ子には不思議でならなかった。カッパが悪さをすると決めつけているわけじゃない。キュリー先生がきらいなわけでもない。だからといってカッパが人間と同じように暮らしているって変じゃないのか。
(どうしてカッパが、人間の学校ではたらいているのか?)
それもおかしな話だ。カッパなのだから、水辺で仲間たちと自由に暮らせばいい。わざわざ洋服なんか着て、慣れない人間の言葉を話して、保健室にこもっているなんて。カッパには苦行なのではないだろうか。それとも、あの先生には何か目的があって、この学校にやってきたのだろうか。
物事の白黒をはっきりさせないと気がすまないシマ子にとって、キュリー先生がカッパかどうか分からないままの状況というのは、モヤモヤ、イライラするのだ。
それなら、シマ子が直接先生に直接聞いてみればいい。なのに、どうしてもそれが出来ない。先生の前に立つと、とたんに口が動かなくなるのだ。話をする時、キュリー先生は細い目で、じーっとこちらの目の奥までのぞきこんでくる。キュリー先生の質問には答えられるのに、こちらが聞きたいことは聞けないのだ。きっと何かの術をつかって、質問させないようにしているにちがいない。
さらにシマ子には、キュリー先生への疑いをさらに強める出来事があった。その日、給食の準備をしていると、牛乳を運び忘れていることに気がついた。時々そんなことがある。
「わたしがもらってくる」
教室を飛び出したシマ子は、近道をしようと保健室の前をしのび足で走った。用事がない時は通ってはいけないろう下なのだが、ここを通ると給食室まですぐなのだ。
「ワッハッハ」
とびらのしまった保健室の中から、ごうかいな笑い声が聞こえて、シマ子は立ち止まった。(校長先生だ!)その場でしゃがみこんだシマ子は、そっととびらの横に移動し、耳を近づけた。よく通る校長先生の声だけが、ろう下までひびいてくる。
「何も遠慮はいらんよ。うちの畑でできたキュウリで作ったカッパ巻きなんだから。キュリー先生が好きだと聞いて、うちのかみさんも張りきってな。カッパ巻き食べて、先生も夏バテせんよう、気をつけてください」
(そういうことか。キュリー先生はカッパ巻きを食べるために、この学校にやってきてたんだ。わたしたちの世話をするのは、そのためだったんだ)
シマ子は腹が立った。ぎゅっと力をこめた右手の握りこぶしに、自分の怒りをとじこめた。
**
あと数日で夏休みが始まる。子どもたちはうれしくて、ソワソワと落ち着きがない。そんな中、村では特別なお祓い(おはらい)が行われることになった。急なことだった。山奥の滝つぼで行われるという。遠くから呼びよせたという有名な神社の神主さんが、お盆にやってくるらしい。準備のために、滝つぼの周りにはしめ縄がまかれ、ギザギザの白いひし形の紙(紙垂:しで)がはりめぐらされた。
「お祓いがすむまで、あの滝つぼには近づいてはいけません。川で泳いでもいけません」
一学期さいごの全校集会でも話があり、注意事項を記した紙が配られた。子どもたちの持ち帰った紙を見て、どこの家の親たちも不思議そうな顔をした。
「そんなの、今まであったことないけどねえ」
「まあ、いいじゃないか。学校がそうやって動いてるっちゅうことは、村長も知ってるんだ。それにお盆がすぎれば、おしまいじゃ」
滝つぼに関心のない親たちは、それ以上の反応を示さなかった。村人たちにとって、学校の先生はかしこくて信頼できる存在だ。先生がいう通りにしていればまちがいない。子どもたちは泳ぎたがってぐずったが、お盆までだとなだめられた。
一番反発したのはシマ子だった。
「どうして泳いじゃいけないの?」
子どもは、ひと夏かけて毎日少しずつ練習し、泳ぎを身につけていくのだ。
「シマちゃん、来年も泳ぎを教えてね」
去年の夏の終わり、年下の子たちと口約束をしたこともしっかりと覚えている。半分の時間で、泳ぎが上達するのはむずかしい。それに…。シマ子は今年、いよいよ一人で滝つぼにもぐるつもりでいたのだ。息を長く止められるよう、毎晩、風呂場で湯船につかって息を止める練習をしてきたというのに。
何よりも気がかりなのは、水泳大会のための練習がほどんとできなくなってしまうことだった。お盆まで泳げないなんて夏休みが半分終わってしまう。このままでは、大会で入賞するのも無理になる。
「心配せんでもええ。お前なら練習期間が短くても、しっかり泳げるさ」
父親に何度はげまされても、シマ子はうつむいたままだった。
<3>
八月に入ってすぐの天気のよい昼下がりのことだった。午前中の畑仕事をおえた村人たちは、いったん家に帰り、家族そろって少しおそめの昼ごはんを食べる。この時間が一番人目につきにくい。シマ子はこっそりと家を抜け出した。父親は、町に出かけて留守だった。春からシマ子のばあちゃんが体調をくずして入院しているのだ。
(もう待てない。ひとりで泳ぐ)
だれにも相談することなくシマ子はそう決めた。川は、村のすぐ脇にあるので人目につく。滝つぼがいい。あそこなら誰もこない。お祓いの前だから、行ってはいけないことになっているけれど。
「だいじょうぶ」
シマ子がそう思うのには、彼女なりの理由があった。小さな頃からずっとあそこで泳いできたけれど、恐ろしい目にあったことは一度もない。ふつうの滝つぼとちがって、水の流れもゆるやかだ。父親もそういっていた。
「だいじょうぶ」
シマ子は自分にいい聞かせるように、二度、同じ言葉を口にした。ポケットに手を当てて細くて固い金ぞくの棒をにぎった。先っちょに丸い紅玉のついた母親の形見のかんざしは、シマ子のお守りだった。
サササ、サササ。慣れた山道をシマ子の細い足がとぶようにかけ上がっていく。滝つぼの周りは、セミの鳴き声がひびくばかりで他には何もいないようだ。風がかすかに、しめ縄につけられた紙垂をゆらしている。
「水がいつもより澄んでいる」
滝つぼは、周囲をおおっている木々の枝葉を水面に映して、緑色にかがやいていた。光が反射してキラキラとまぶしい。シマ子はすっと服をぬぎ、下に着ていた水着一枚になると、バシャンと水に飛び込んだ。
「気持ちいい」
一年ぶりの滝つぼの水は、井戸水と同じくらい冷えていた。暑さに焼かれた皮膚が水の中でぎゅっとちぢまった。水面に浮かんで、うでや足を動かし続けていると、水と身体のさかい目が段々と消えていくように感じられる。シマ子は円を描くように水の中を泳ぎまわった。
「だいじょうぶ」
去年と同じように身体はちゃんと動く。身体は泳ぎをおぼえてる。しばらく立ち泳ぎをしていたシマ子は、深いところまでもぐってみようと思いたった。どこまでもぐれるか分からない。いけるところまでいってみよう。そう決めて、高まる気持ちをしずめようと深呼吸した時だった。
グイ、グイ。
だれかがシマ子の足を水中から引っ張った。急なことで、息を吸おうとしていたシマ子の口からもごもごと空気の泡がもれた。いやだ、苦しい。足をバタつかせてみるが、足首を強い力でつかまれて、自由に動かせない。
ゴボゴボ、ゴボゴボ。
水の中に引きずり込まれながら、シマ子は足元をふりかえった。真っ黒い大きな影が足首にくっついている。バケモノとしか言いようがない。
「だれか、助けて」
声にならない声が、泡になって水面へと上がっていく。
「息が、息が苦しい」
肺の中に水が押し入ってきそうになった時、グワーンと水の中を大きな振動が伝わってきて、不意にシマ子の足はするりと自由になった。でも、いつまたつかまれるか分からない。無我夢中で水面に浮かび上がったシマ子は、そのまま岸辺まで全力で泳いだ。
四つんばいになって陸に上がった。髪の毛の先からポタポタと水がしたたる。自分の荒い息が、耳元からせまってくる。周囲は先ほどと同じように、セミの鳴き声がひびいている。横に目を走らせると、らんぼうに脱ぎすてられた洋服が目に入った。白い布きれはエプロンのようだ。それに白い三角巾。もしやキュリー先生?
シマ子は、足元に広がる滝つぼをもう一度、しっかりと見た。水の奥深くで、何かがもつれあい、動き回っている。シマ子の足をつかんだバケモノと先生がたたかっているのかもしれない。今になってシマ子の身体は鳥肌が立ち、ふるえ始めた。水が冷たかったせいではない。もう少しで命を失いそうになった恐怖のせいだった。
「キュリー先生…」
シマ子は小さくつぶやいた。お願い、死なないで。もどってきて。
コボコボ、コボ、コボ、コボ。
水の中からいくつもの泡が水面に上がってくる。このままではキュリー先生が危ない。シマ子は眉間にしわをよせた。
(迷っている場合じゃない!)
とっさに母のかんざしを手にとったシマ子は、再び滝つぼにとびこんだ。
(つづく)
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