薔薇の王子。(2)
夜になると昼間の暑さがゆるみ、空気がひんやりと感じられます。どこからか虫の鳴き声も聞こえてきます。王子は今夜も物思いにしずんでいます。
「なんだろう、この気持ちは。何かが足りない。ぼくが冬の間、心から待ち望んでいた何かに、この夏はまだ出逢えていない、そんな気がして仕方がない。ああ、虚しさばかりがふくらんでゆく」
春先には芽生えそうになっていた希望が、今や消えてしまいそうな程小さくなっていました。そのせいで、王子は空に向かって強く伸びようという気持ちも、美しい花を咲かせたいという気持ちも失いかけているのです。
「ぼくはこのまま死んでしまうのかもしれない。冬でもないのに枯れてしまうのかもしれない」
王子の嘆きに耳を傾けてくれる者はやはりいません。王子はひとりぼっちでした。沢山の花たちに囲まれながら、仲間とともにいる喜びはまったく感じられません。
その時、家の中から低くくぐもった声が聞こえてきました。昼間に閉め忘れたリビングの窓が、半開きになっているようです。乃咲さんがだれかと話をしています。
「ばあさん、困ったことになったよ。お前に教わった通りに、ちゃんと世話しているつもりなんだが、バラがちっとも花を咲かせてくれないんじゃ」
電話をかけているようです。しばらく沈黙が続きます。電話の向こうで、だれかが乃咲さんに話かけているようです。
「…やってる、やってる。それはちゃんと、まちがいなく」
乃咲さんが少しイライラした様子で、返事をしています。
「寒い時期に枝葉も切り取って、すっきりさせたよ。そうすれば、暖かくなったらうーんと大きくなるとお前が言ったじゃないか。あとは栄養と水分をしっかり摂って、咲いてもらうだけだというのに。わしは一体、これ以上どうしたらよいものか」
それを聞いた王子は、むねを痛めました。
「あの日、ぼくの枝葉を切ったのは、悪意があったからではなかったのか。ぼくが大きくなるようにと思ってのことだったのか」
王子は、乃咲さんが電話口でしきりと口にする「ばあさん」という言葉が気になりました。その言葉の響きに聞きおぼえがあるのです。
「はて、だれだったか…」
思い出そうと懸命に目をつぶってみますが、うまくいきません。冬眠している間に、前の年の記憶がかなり曖昧になってしまったようです(本当は水分不足で、頭が回りづらくなっていたのですが、王子自身はそのことに気づいていません)。
「ばあさん、ばあさん、ば・あ・さ・ん、もしや、ばあやのことか?」
ばあや。ばあや。三つの音を頭の中で繰り返すうちに、記憶が少しずつよみがえってきました。たしか去年の秋までこの家にはばあやがいて、王子たちを丁寧に世話してくれていたのです。
「王子、これからまた寒くなりますよ。ゆっくり休んで、春になったらまた真っ赤な花を咲かせてくださいね」
木枯らしが吹き始める頃、ばあやは王子のカラダに残る葉っぱを、一枚一枚手でさすりながら、声をかけてくれたのです。
「そうだ、今年はまだばあやに会っていないぞ。ばあやの声すら聞いていない。一体、彼女はどこへ消えてしまったのか」
王子は庭については多くのことを知っていました。でも乃咲さん夫婦のことについては、それほど詳しくありませんでした。自分が冬眠中に、乃咲さんの奥さん(ばあや)が足を骨折し入院したことも、ばあやの代わりに今はご主人の乃咲さんが庭の手入れをしていることも、まったく理解してはいなかったのです。
目の前にばあやが現れたわけではありませんでしたが、大切な人を思い出したおかげで、ぽっかりと空いていた王子の心の穴は塞がれ、小さな希望がかすかに動き始めました。
気づくと、また乃咲さんの声が聞こえてきました。でもさっきとは少し様子がちがいます。声がはずんでいるのです。
「ああ、なるほどな。それは気づかなかったよ。うっかりしとった。明日から早速やってみよう」
電話はそこでおしまいになったようです。庭に静けさがもどってきました。
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翌朝、日がまだ昇ってもいない早い時刻にうら口のとびらが開いて、乃咲さんが出てきました。植物たちに水をまき終わると、ジョウロを片手に王子の元へ近づいてきます。
「おはよう。よく眠れたかい。さあ、これは栄養剤の入った水だ。たっぷりと飲んで大きくなっておくれ」
そう言うと、王子の足元にまんべんなく水をまいたのです。王子は目をぱっちりと開いて、乃咲さんの顔を見つめました。特別な水をまいてもらったことよりも、自分に話しかけられたことにびっくりしたのです。
「これは驚いた。まるで、ばあやみたいじゃないか」
王子の声が聞こえたわけではありませんが、乃咲さんは話を続けました。
「夕べ、ばあさんに叱られてしまってな。ちゃーんと話しかけないで、バラが大きくなったり花を咲かせてくれたりするわけがないと。すまんかった。植物に話しかけたことなんか、わしの人生には一度もなかったからな」
乃咲さんは、カラカラとかわいた声で笑いました。
その日を境に乃咲さんの仕事ぶりが少しずつ変わっていきました。ちょうど畑に植えていた夏野菜が実り始めた時期とも重なりました。暑さに強いきゅうりやピーマンは、次から次へと大きな実をつけました。
「おお、もうこんなに大きくなっておる。わしひとりじゃ食べきれないぞ」
自分の畑でできた野菜を手に取り、乃咲さんは顔をほころばせて匂いを嗅いでいます。
朝顔たちも、ツルを伸ばして上へ上へと上がっていきます。
「朝顔もすごいな。今朝は8つも花を咲かせておるわ。ばあさんにも見せてやらなくちゃな」
そう言うと、カメラを持ってきてパシャリ・パシャリと写真を撮ります。
王子の世話も、以前よりも念入りにしてくれるようになりました。「どれどれ」虫メガネを王子のカラダに近づけると、アブラムシを指でつまんで取り除いてくれます。
「これはいかん。これ以上、虫が増えたらきれいな花が台無しになる」
殺虫剤を買ってきて、王子の葉っぱにやさしく吹きかけます。
「このじいさん、顔が少しずつ変わってきているぞ」
さすがはバラの王子です。大事なことは見逃しません。最近、乃咲さんの表情も以前とはちょっとだけちがうのです。あの電話の前までは、面倒臭そうに、いやいやそうに庭仕事をしていたはずなのに、今では楽しそうに雑草をぬいたり、花だんに並ぶ植物たちに話しかけたりしています。作業中に鼻歌を歌っていることすらあるのです。
「この感じ、前にも味わったことがある」
と王子は思いました。
「そうだ、これは去年の夏と同じだ。その前の夏とも同じだ。ばあやがこの庭にいた時と同じ心地良さがあるぞ」
庭ではたらく人間が、活気にあふれ生き生きしていると、庭の空気がやわらぎ、そこで生きている植物たちの心も和んでくるのです(ちゃんと水を飲み始めた王子は、昔の記憶もしっかりと思い出せるようになっているのです)。
それにしても…。王子は持ち前の観察力と分析力とを大いに発揮して、新たに発見した出来事について考えを深めていました。人間とは不思議な生き物だ。ぼくたち植物とはずいぶんちがっている。彼らには手や足があって、ぼくたちよりも自由に移動することができる。そんなことはずっと前から知っている。今日ぼくが知ったのは、そんなことではない。人間の顔があんなにも変わるということ、そして顔が変わると、その人がまとっている空気まで変わるということだ。ぼくにとってばあやは、陽だまりのような人、笑顔の人、やわらかな人だった。反対にこのじいさんは、ゴツゴツした人、不機嫌な人、ざつな人、怒っている人だった。それなのに、そうとばかりは言い切れないということを、ぼくは今日知ったのだ。
その日、昼前にふたたび庭に出てきた乃咲さんは、大きな麦わら帽子をかぶっていました。黒い長ぐつをはいて、意気揚々と畑の方へ歩いていきます。
「そろそろ畑のじゃがいもたちが大きくなった頃だ。掘り起こしてみるとするか」
日差しは強く、ジリジリと地上に降り注いでいます。
ミーン、ミーン、ミーン。
あちこちで蝉たちが大合唱しています。ドシン。畑の方から、何かにぶくて重たい音がしました。うつらうつらしていた王子が目を覚ますと…大変です。乃咲さんが畑で倒れています。
「ああ、なんということだ。じいさん、こんな炎天下に畑仕事などするものだから」
庭の植物たちが、わさわさと騒ぎ立てます。心配しているのです。でもだれも乃咲さんに近よることも、声をかけることもできません。何かできることはないのか、じいさんを助けることはできないのか。焦った王子のカラダがフルフルとゆれました。
ミーン、ミーン、ミーン。
蝉たちの声がますます大きく聞こえてきます。鬱陶しいほどです。ちょうどその時、家の前に見慣れない白い車がスーッとやってきて止まりました。バタン。降りてきた女の人が門をくぐって、こちらへやってきます。乃咲さんを見つけるとすぐに駆け寄りました。
「お父さん、お父さん。しっかりして!」
まもなく大きな真っ白い車がサイレンとともに家の前に到着し、乃咲さんは数人の男たちに抱えられ、連れて行かれました。救急車で病院に運ばれたのでした。
(つづく)