オリンピック・パラリンピック教育って何なのかしらね(追記あり)
オリンピック開会まで間近なのに、この話題は結構センシティブで、noteで下手に触れないほうが良いのかもしれない、でも、そんな世の中はとても歪だと思うのです。だから、自分がどうしても違和感を感じこれはヘンじゃないかと考え続けていることについて、ずーっと下書きで何度も書き直していたnoteを、あまりまとまっていないけど、一度放出します。あー、でも、やっぱりうまく言い切れてない……。
はじめに
どうあっても開催方向に進んでいるオリンピック・パラリンピックにまつわるあれこれ。中でも、私は、学校連携観戦プログラムというものに一番と疑問と憤りを抱いていて、ここではそれへの反感を主に綴っています。けれど、決してこの学校連携観戦プログラムを到達点とする(ように見える)オリンピック・パラリンピック教育の一つ一つの取り組みやそれを今まで遂行してこられた現場の先生方・関係者のご尽力すべてを否定する意図はありません。
あくまで東京オリンピック・パラリンピックと学校教育を結びつけて展開する方針と、その結果今なお遂行されようとしている学校連携観戦プログラムに疑問があり、賛同できないという思いをここに書いていることをご理解いただければと思います。
学校連携観戦プログラム
昨年度、予定通りオリンピック・パラリンピックが開催されていたなら、都内中学校に在籍中だった息子は、競技会場のある自治体などの児童・生徒たちが観戦する、学校連携観戦プログラム の対象であり、某かの種目の観客として”動員”されていたはずでした。
息子の母校が観戦予定だった競技の会場は、有明アリーナです。中学校の最寄り駅(徒歩10分)から、有明アリーナの最寄り「有明テニスの森駅」までは、ネットの経路検索で所要1時間〜1時間15分ほど、乗り換えは2回、駅から会場までは大人の足で徒歩8分。
東京の7月と8月。前半は比較的マシな印象があった2020年でも熱中症警戒アラート がこの間16回出され、8月の猛暑日(最高気温が35℃超え)は11日ありました。
危険だから日中の運動は原則中止、不要不急の外出は避けろと言われる中、公共交通機関利用(東京都は移動手段は貸切バス等ではなく公共交通機関利用前提)での往復2時間超え移動と(会場によっては屋外の)スポーツ観戦。
個人の自由な行動ならまだしも、数十人もの(いや学校単位だとすれば数百人か)の集団行動で、引率する教員や補助員の人数はどれほどなのでしょうか。高学年や中高生なら、多めの水分持参や体調管理など自分の身を守れる行動も可能なのかもしれませんが、小学校低学年以下(幼稚園・保育園も対象だと知って驚いた)、あるいは特別支援学校の生徒といった、きめ細かな配慮が必要な子どもたちにそれが可能なのかどうか。
実際に、都内の小学校の副校長先生が児童引率の下見をした上で、悩ましい実態の声を(かなり控えめにだけれど)あげられておられます。こちらの小学校では、移動に交通機関乗り換え3回、往復4時間を想定しています。
私は、この計画に対し、学校単位で教員の引率によって観戦する必然性が当初から全く理解できませんでした。遠足や移動教室のように何年もかけて、計画し繰り返してノウハウを蓄積してきた行事とは違います。なのに万が一事故が起こった場合、責任問題の矢面に立たされてしまうのは学校と先生方になる可能性があります。そこにコロナ感染という非常に大きなリスクが上乗せ。保護者の立場からほんの少し想像するだけでも、もう無茶苦茶だろうと思うのです。
いくつか自治体レベルで中止の決定をしているところもあります。でも、ほかはまだ”計画通り”遂行するつもりなのでしょうか。この段階になっても未だはっきりしません。
オリンピック・パラリンピック教育とは
だいたい”オリンピック・パラリンピック教育”というのは何なんでしょう。
東京都は、2016年から都内公立小中高等学校で「東京都オリンピック・パラリンピック教育」を実施してきました。年35時間を5年間も。
「東京都オリンピック・パラリンピック教育」実施方針 より抜粋
これら方針の資料の中で[育成すべき人間像]の内容にも、多少異論はあるのだけれど、私が一番疑問に思うのは、[基本的視点]のうち、 全ての子供が大会に関わるという点です。
(1) 全ての子供が大会に関わる
全ての子供が、発達段階や興味・関心に応じて、オリンピック・パラリンピックに何らかの形で関わり、それらを通して、オリンピック・パラリンピックの価値や意義を学ぶ。
「東京都オリンピック・パラリンピック教育」実施方針(PDF形式:1990KB)
何故全ての子供が大会に関わらなければいけないのでしょう。オリンピック・パラリンピックって、全ての子供にとって、そんなに重要なものなんでしたっけ?
これまで5年間、東京都でオリンピック・パラリンピック教育の名の下に行われた様々な取り組みの報告をみると、ひとつひとつ非常にポジティブで、善い行い に思えます。事実、子供たちが楽しみ、大きな学びになったものもあるでしょう。
けれど、オリンピック・パラリンピック選手の学校訪問、競技体験、などはともかく、近隣の祭りのお手伝い、和菓子作り、障害者福祉についての学習、あいさつ運動、など中にはオリンピック・パラリンピックの名を冠せずとも、既にこれまで学校の中で日常的に取り組まれていたものであったり、オリンピック・パラリンピックに結びつける必要があるのか疑問を抱く内容が沢山あるように思います。
スポーツ庁のHPをみると、政策の中にオリンピック・パラリンピック・ムーブメント全国展開事業(オリパラ教育) という事業があり、こう記載があります。
本事業は、オリンピック・パラリンピック・ムーブメントを全国に波及させ、2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会を成功させるため、オリンピック・パラリンピック教育を開催都市だけでなく全国に展開していきます。
はっきりと書いてあります。オリンピック・パラリンピック教育を行うのは、2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会を成功させるためなのだと。 だから、機運を盛り上げなんとしてでも成功させるために、オリンピック・パラリンピックを、全ての子供にとって重要なものに仕立て上げる必要があったのかと思えてしまいます。結果、子供の全員参加を想定した学校連携観戦プログラムのようなものを、子供のためという善意の顔をして設定し、こんな世界の情勢や多数の反対意見があるにも関わらず、未だすべて中止するという決定ができない。
オリンピックってスポーツの祭典じゃないの?
オリンピックは4年に一度開催される世界的なスポーツの祭典です。スポーツを通した人間育成と世界平和を究極の目的とし、夏季大会と冬季大会を行っています。
私は、運動は得意ではないし体育の授業は大嫌いだったけれど、スポーツは観るのもするのも好きです。機会があれば様々な競技の観戦を楽しみ、その楽しみが脅かされない平和な日常を望んでいると、今までいくつものnoteの記事で(主に野球についてばかりですが)書いてきました。
だからもちろん、常に鍛錬しベストを尽くすアスリートや、アスリートが力を発揮できる環境をつくりあげる人々に多大な敬意を持っています。
けれど、彼らはあくまで他人です。私はそこを目指し夢見てきたアスリート(や、その関係者)という当事者ではないから、私にとってオリンピックやパラリンピックは、他人が目指す、他人の夢です。そして「4年に一度開催される世界的なスポーツの祭典」それ以上でもそれ以下でもありません。
アスリートの並々ならぬ努力や夢を想像し心を動かされ応援したり、競技の迫力や駆け引きを楽しみ、結果を喜び拍手をおくり明るい気持になったり、悔しい思いにつられて涙したり……そういうものはあります。けれど、観ているだけの、応援しているだけの私が、他人であるアスリートがするスポーツに自分の人生を委ねることはありません。スポーツ観戦は”エンターテインメント(entertainment)”だと思っているからです。アスリートの競技を観る私はただのファンです。
それとも、オリンピックってただのスポーツの祭典じゃなくて、なにか神がかり的に万能で、万人が畏敬を抱くべき神聖なものだったんでしょうか。そんなはず無いと思うんですが。
感動や価値を子供に押し付けないで
「一生に一度しか無いかもしれない東京オリンピックだから、世界のアスリートの闘う姿を子供たちにみせてあげたい」「子どもたちにレガシーを残したい」そういうふうに言う大人が沢山います。けれど、それは、どんな状況でも、どんな子にでも当てはまることでは無いはず。何でもかんでも遺産として残そうとしたって、それは後世にとって負債や時代遅れの遺物になることだってありえます。
人が成し得る素晴らしきものは、スポーツだけではなく、音楽や演劇、アート、文学……、多様にあり、何に感動し、何に価値を見出し自分の人生の糧や供とするのかは人皆それぞれに違うはず、それは子供であったとしても、個々が選びとるべきことです。
なのに、何故、学校で、スポーツの祭典であるオリンピックにだけ、全ての子供が関わらなければいけないのか。
大人が、東京オリンピック・パラリンピックだから、アスリートの闘う姿は素晴らしいから……殊更そこに固執して、全ての子供に有益だとして教育に持ち込むのは、オリンピック・パラリンピックを過大評価し、肥大化させすぎた一部の大人の都合を振りかざしているだけに思えて仕方ありません。
息子に、クラスでオリンピックがどうのって話するの?と尋ねたところ「ぜんぜん」という返答でした。
昨年以降、日常生活は一変し、修学旅行をはじめ楽しみにしていた学校行事も、彼や彼の部活の仲間が力を注いでいたコンクールも、最後のコンサートも全て無くなりました。今でも、4月に入学した高校で、初めて出会った人ばかりなのに、オンライン授業だの分散登校だのが多く、常にマスク着用、昼食時もなるべく喋らず、部活動も制限つき、行事も尽く中止または限りなくそれに近い延期。気軽に遊びにも行けない日々が続き、そもそも、人との会話自体が少ないのだと思います。多くを気軽に語り合える友を見つけるどころでは無いでしょう。長く続く理不尽な事態に泣きながら大切なものを手放し、思う存分前に進めず惑っています。
さらに、今オリンピック観戦に行けるとしたら行きたいかきいたら「いや」と、「こんな時にオリンピックとかなんでやれんの?ってかんじ、あと(吹部の)コンクールあるし」という。
「でも、中には行きたいって思う子もいるんじゃない? 小学生とか小さい子なら。学校の遠足みたいに思うかもね。あと、東京でオリンピックやるなんてもう一生ないし、アスリートはみんなすごいから応援しましょうって、そういうふうに、学校で教わってんだもん。(自分だって)コロナじゃなかったら、なにもヘンと思わなかった」
とくに気にもとめぬまま、学校で展開されていた、オリンピック・パラリンピック教育。私はいま、自分がとても迂闊だったと臍を噛んでいるのです。
地獄への道は善意で舗装されている
The road to hell is paved with good intentions
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オリンピック開会前に書いた記事ですが、緊急事態宣言が出て無観客が決定している中、さらに、東京はじめ各都市で、感染がさらに拡大し「感染防止手詰まり」「災害級」などの言葉が出ている中で、あろうことか再び、パラリンピックに、子どもたちを動員しようと計画している。
心の底から憤りを覚えます。どう言葉にしていいかわからないくらい。
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