葭始生
右手に握りしめたエコバッグから飛び出たネギが手の甲を掠める。
学生時代、晩ご飯はなんだろうかと考えながら通ったこの道を、今度は自分が夕飯のメニューを考えながら歩くことになるとは…
夕暮れの土手には涼しい風が吹き、すれ違う野球少年たちは楽しそうに声を上げながら走り去っていく。
「おーかーあーさーん――――――!!!!」
遥か先を歩いていた息子の声が空に響く。
「はーい。」
「はーやーくー!」
逆光によりその顔は判別できないが、ぴょんぴょんと跳ねるシルエットが細く伸びている。
その影を追いかけるように近づけば、どこで拾ったのか細長い木の枝を手にしていた。
「それどうしたの?」
「ひろった!」
ね?と隣を見上げながらニコニコ笑う息子と、その頭をぐりぐりと撫でる大きな手。
寝ぐせで跳ねている襟足が風にそよいでいる。
「荷物持とうか?」
「大丈夫。よしくんが重いの持ってくれてるから。」
私のものと色違いのエコバッグを肩に掛けなおした夫は、やはりこの景色が懐かしいのか辺りをきょろきょろ見回している。
「よしくんもこの辺通学路だったの?」
「いや、通学路じゃなかったけど…就活がうまくいってなかったころ、よくここの土手でぼーっと昼寝してたよ。」
ははは、っと穏やかに笑うよしくんとは仕事先で知り合った。
取引先のチームリーダーとして時に厳しく時に優しく皆をまとめる包容力のあるところに惹かれ、少しずつ会話をするようになり、デートを重ね、お付き合いをするようになった。
同郷かつ住んでいた地域も近いと知ったときは、ありきたりながら運命だと思ったが、10も歳の差があれば共通項も少なく、こうして帰省の折にいろんな景色を見ながら答え合わせのようなやり取りをするようになった。
「よしくんが就活してた頃ってことは…」
「瑞穂は小学生かな?」
「…そう考えるとなかなか…」
「…いやぁ…」
ちら、と目を合わせて同時に吹き出す。
「小学生かぁ〜…あ!それじゃ、あれ知らない?草笛おじさん!」
「草笛おじさん?」
「そう!ここの土手でいつも草笛吹いてる眼鏡かけた暗〜いおじさんがいてね、登校のときも下校のときも休みの日もずーっといるから“土手に住んでるんだ”って学校で話題になってた人がいるの。よしくん見たことない?」
今よりもっともっと草がぼうぼうと生い茂っていたあの頃、姿が見えないのに草笛の音だけが聞こえてきて、そのときはなんだか怖くて絶対目線が合わないよう地面を見つめながら走って通り抜けたものだ。
懐かしいなぁ、とまだ草が芽吹き始めたばかりの土手で木の枝でガリガリと地面をこすりながら歩く息子を眺めていると、隣から小さな声が聞こえた。
「…それさ…」
「うん?」
「その笛吹おじさん、たぶん俺だ…」
「………え?」
驚いて振り向けば、眉を下げて苦笑いをするよしくん。
「4年のとき、単位も取り終わって授業もなかったから一日中ここでぼーっとしてて、手持ち無沙汰になったら生えてた葦の葉で笛作ってなんとなーく吹いてた…んだよ、ね…」
「…うそ…」
「まぁ、小学生から見たらおじさんだよな…」
はぁ…とため息をつくその姿は、残念ながら今はどこからどうみてもおじさんそのものだ。
「………なーに笑ってんの」
「…ふふ……ううん……なんか、ごめんね……っ、」
「謝られたら余計悲しいわ!」
コツン、小突く手は優しい。
その手をとって、腕を絡めると少し恥ずかしそうに視線を外す。
“おじさん”のそんな仕草に胸がときめく。
惚れた弱み、というやつだ。
「夏帰ってきたときには、草笛、教えてあげたら?」
「…そうだね」
座り込んで夕焼けに染まる小さな葦をつんつん、と突く息子を見つめる優しい瞳を隣からこっそり見つめた。
穀雨
葭始生(あしはじめてしょうず)
暖かさが増し、野山だけではなく葭などの水辺に生える草木も芽吹き始める頃。