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蛙始鳴
「おはよう!」
ここ最近ですっかり聞き慣れてしまった声に思わず嘆息する。
後ろから声を掛けられたなら、気づかなかったことにしてそのまま教室まで走ってしまうのに、わざわざ回り込んで目を合わされてしまえば無視するわけにもいかない。
「…おはようございます。」
「敬語じゃなくでいいよ?」
「いえ。先輩なので。」
軽く頭を下げてその横をすり抜けようとするも、踵を返した先輩にぴたりと張り付かれてしまう。
失敗だ。
「あの…何か?」
「ん?俺も次の教室があっちなの。」
「そうですか…。」
笑顔で隣を歩くこの先輩は、先日サークルの新歓コンパで知り合い、私がやらかしてしまった相手だ。
「それで?この前の話、考えてくれた?」
「お断りします。」
「えー?なんで?」
「興味ないので。」
「でもヒロインのイメージ、ぴったりなんだよー。」
「そもそも、私友人の付き添いで参加しただけでサークルには入りませんから。」
「あー!タダ飯食べに来たんだー。」
ニヤニヤと笑うその口を縫い付けてしまいたい。
すれ違う人たちが振り向くほど大声で話しかけてくる様は、さながら自宅近くの公園で猛々しく鳴いている蛙のようで、一気に不快感が増す。
相手にしては無駄だと、愛想笑いをしながら歩く速度を速める。
それでも、相手は男。
しかも180㎝はあるであろう長身の、男。
あっという間にその差を縮められ、並ばれてしまう。
「じゃあ、もう1つの方は?考えてくれた?」
「…それもお断りしたはずです。」
「美空ちゃんが言ったんじゃん。寂しいって。」
思わず足が止まる。
猛烈に腹が立つのは、目の前でニヤリと笑う先輩ではなくあの日の自分自身に対して。
先日、語学の授業で仲良くなった友人の付き添いで参加した演劇部の新歓コンパ。お店を貸し切っての飲み会には50人ほどの参加者がいて、多くの人が行きかう会場は誰が新入生で誰が在校生か分からないほど混雑していた。
さして演劇に興味のなかった私は何となく同じ空気感をまとった女子数人と壁の花を決め込んでいたのだが、気を付けてはいたものの、慣れないお酒でいつもより饒舌になった私はついポロっと、遠距離恋愛の愚痴を吐き出してしまったのだ。
それを側で聞いていて、それならば俺と付き合わないか?と軽々しく声をかけてきたのが目の前にいるこの男。
サークル内では人気だという、自信満々で、こちらの話を聞きもしないこの男のどこが魅力的なのかさっぱり分からない。
「あれは、女子同士の恋バナの一環で話していただけで、先輩に言ったわけではありません。」
「俺ならずっと側にいてあげられるよ。」
「結構です。」
「えー?だって寂しいんでしょ?」
「…別に。」
無意識にパーカーのポケットを上から撫でる。
固い凸凹した感触は、鍵に取り付けたストラップ。
新しい約束をもらってから数か月。
遠距離恋愛は意外と平気だと思った。
これまでだって会うのは年に数回。連絡も頻繁にとっていたわけじゃない。
新生活でバタバタしていて、寂しがる暇もない。
これまでとそんなに変わらないじゃん。
そう思っていた。
けど違った。
連休に地元に帰っても会えない。時差のせいで電話はおろか、メールすらスムーズにやりとりできない。彼のものが残った部屋に1人でいるのは、すごく寂しい。
思っていたのと全然違う。
あの日交わした約束の日はまだまだ先で、早く彼に追いつきたいのに、何から始めればいいのか分からず、感情だけが先走って実際の自分は置いてけぼりのまま。
それでも…
「美空ちゃん?」
それでも、待つと決めたから。
硬い感触を掌に感じ、無遠慮に覗き込んでくる先輩の目を正面から見据える。
「寂しくても、彼がいいので。」
すみません、と頭を下げながらその横をすり抜け、校舎へと駆け込む。
目的の教室へたどり着き、息を整える。
失礼な物言いだっただろうか…でも正直迷惑していたし、別に今後関わる予定もないので構わないや、と鞄から教科書を取り出したとき、内ポケットがヴヴヴ、と震えた。
メッセージアプリのアイコンと今一番会いたい人の名前が表示されていて、急いでタップして内容を確認する。
『夏には帰る。
そっちの写真も送って。』
若干ブレている写真の中には、見知らぬ風景をバックに写るややぎこちない笑顔。
不慣れ全開の自撮り写真をタップして保存する。
なんというタイミングだろうか。
「美空ちゃん、おはよう。」
「おはよう!…あのさ、お願いがあるんだけど…」
「なにー?」
「一緒に写真とらない?」
「写真?いいけど、急にどうしたの?」
「…ちょっとね。」
始業のチャイムがなる。
何の変哲もないただの教室を背景に、急いでシャッターボタンを押した。
立夏
蛙始鳴(かわずはじめてなく)
本格的な夏を前に、蛙が活発に活動を始め、鳴き始める頃。