玄鳥至
「あーーー、腰が…」
去っていくバスの駆動音を聞きながらキャリーケースから手を離し、ぐっと両手を空に向かって伸ばす。
鈍い音が節々でなっているのを無視して脱力すれば、先ほどよりかは幾分軽くなった体。
首を回すついでに辺りを窺うが、時が止まっているのではないかと思う程に記憶の中の風景と相違ない。
錆ついた看板の精米機、色あせたポスターの張られた美容室、崩れないのが不思議なほど朽ちている野菜の無人販売所。
砂利道にキャリーの足をとられながら何とか歩き続けていると、ようやく実家の屋根が見えてきた。
最後の難所とも言うべき急な坂を上りきったところで庭先に人影があることに気づく。
「…あ、お父さんか…」
見覚えのある野球帽と作業着として愛用しているジャージ。
もくもくと花壇の土をいじっているその背中はまだまだ背筋も伸びてしゃんとしているが、ほんの少しだけ小さくなったように感じる。
声をかけるにはまだ距離があるな、とそのまま無言で歩き続けていたがキャリーの音が耳に届いたのだろうか…ふと顔をあげた父親と目があった。
「おう、ついたんか。」
軽い足取りで近づいてきたかと思うと、キャリーの取っ手を掴んでるのとは反対側の肩にかけていた紙袋をひょいっと奪い取る。
「うわ、重かぁ…。」
「おばあちゃんとか叔母さんとか、みんな来るっていいよったけん、足りんかったらいけんと思って。」
「にしたって買いすぎやろ…。」
「えへへ。」
紙袋には大量の和洋様々なお菓子。
妹、千咲の結婚を内々に祝おうと親戚一同招集がかかり、土日を利用して久しぶりに帰ってきた我が家の庭は年末の落ち葉だらけの寂しい様子とはガラリと変わって、新緑が目につくようになっていた。
そんな庭を横切り玄関を開けようとしたとき、軒先に懐かしいものを見つけた。
「久しぶりに見た…」
「ん?あぁ、つばめの巣か。」
「うん。私が子供のころは毎年作りよったもんね。」
「今もほぼ毎年作りよるが。」
「え!?嘘!」
軒先の角を占拠する茶色ともグレーともいえない土の塊は、まだ雛もいないようで静かだ。
一番大きい塊の側には、一回り小さいものや崩れかけた古そうなものもある。
子供のころは当たり前のようにあったそれを、学校に行く前と帰ってきてから観察するのが日課のようなものだった。
上京してからは巣どころかつばめの姿すら見かけることはなくなってしまったのだが、その事実すらも今の今まで忘れていた。
「だって最近見た記憶ないよ?」
「お前が帰ってくる盆や年末にはおらんからやろ。」
「あ、そっか…」
年末とお盆に挟まれたこの時期に帰省することなどこの数年一度もなかった。
私が気づかなかっただけで、子供の頃からの“当たり前”は今も続いていたのだ。
「ま、去年は来んかったけど…今年は来てくれてよかったわ。」
父の横顔は穏やかで優しい。
『つばめが巣を作った家には幸せが訪れるんよ。』
昔、おばあちゃんがそう教えてくれた。
きっとお父さんも小さい頃同じように教えてもらったのだろう。
「ちーちゃん、幸先いいね。」
「あぁ。来年も巣作りに来てくれるといいっちゃけど。」
「来年?」
「お前の分やが。」
「あぁ…それは是非とも来てほしい…」
そういって巣を見上げながら両手を合わせると、父が豪快に笑った。
清明
玄鳥至(つばめきたる)
「玄鳥」(げんちょう)という異名をもつ燕が南の国から渡ってくる頃。
本格的な農耕シーズンがはじまる。