菜虫化蝶
やたらと階下が騒がしい…
だるい体を反転させる。
ベランダへ出る窓の向こうに、ひらひらと舞う白を認識する。
春だなぁなんて感じながらぐっと伸びをすれば、かけていたはずの布団がいつの間にか蹴り飛ばされ足元に丸まっていることに気付く。
枕元の携帯をつけることなく、部屋に差し込む光の感じから貴重な休日をほぼ丸一日惰眠に費やしてしまったことに気づいたが、重い瞼をそのままに耳だけを傾けることにした。
何やら嬉しそうな母親の声。
声の響きや大きさから居間ではなく階段下、玄関での会話だろうと推測する。
聞こえる声は他に数人分…
時折聞こえる笑い声は妹の静香で、母親と同じテンションで楽しげに話しているのは恐らく斜向かいに住んでいる伊藤さんちのおばさんだろう。子供のころ、仕事で留守がちな母親の代わりに良く俺と妹を預かってくれた仲良しのご近所さんだ。
「ちょっとー!智之!あんたまだ寝てんの?」
呼びかける母の声に続いてトントン、とリズミカルで軽やかな音が近づいてくる。
ノックもなしに開け放たれたドアから、新鮮な空気と一緒によりクリアになった話し声が飛び込んでくる。
「お兄ちゃん?起きてる」
「……」
「ていうか、そろそろ起きなよ。もう夕方だよ。」
「…寝てる。」
「起きてるじゃん。」
ボスン、と音を立ててベッドに腰かけた静香に背を向けるように寝返りを打つも、お構いなしに静香は話を続ける。
「伊藤さんちのおばちゃんと、なのちゃん来てるよ。」
「なの…?」
伊藤のおばさん家の一人娘の菜乃花。
7つ年下のその子は昔から俺や静香に良く懐いてくれた。ちょこちょこと後ろを付いてくる菜乃花の手を引いて歩いたし、なんだったら俺は彼女のおむつまで替えたことがある。一度何の気なしにその事を話したら菜乃花には泣かれ静香にはデリカシーがない、と怒られたのでそれ以降は口に出さないようにしているが…そんなもう一人の妹のように一緒に育った菜乃花とも、もう随分顔を合わせていない。
最後に会ったのは、俺が大学を卒業して就職のために実家から出る日の朝だったと思う。
中学の卒業式終わりに駆けつけてくれた菜乃花は目に涙をためていて、別に県外に行くわけでもないしまたすぐ会えるよ、なんてなだめて車に乗り込んだ。
実際は仕事が忙しくてなかなか実家には帰れず、時間もなかなかあわない学生の菜乃花とはそれきり会えていなかったのだが…
「なのちゃん、今日大学の卒業式だったんだって。」
「大学卒業…?はっや…」
「早いよね~。卒業したら東京の会社に就職するらしいよ。」
「…驚きすぎて目覚めたわ…」
「そう。ちょうどよかった。降りてきて挨拶くらいしといたら?」
来た時と同じように軽やかに去っていく足音を聞きながら、反動をつけて起き上がる。床に足をおろして、ぬるい床の温度を感じながら所々軋む階段を降りていくと、賑やかな母親たちの声に混ざって笑い声が聞こえる。
踊り場をすぎ、「あら、久しぶりね!」と手を振る伊藤のおばさんに挨拶を返し、その後方へ目を向けると鮮やかな緑が目に飛び込んできた。
「あ、智にぃ!」
今日は驚くことばかりだ。
丁寧かつ複雑に結い上げられ、小さな花飾りが散らされている髪。
鮮やかな緑に色とりどりの花が咲き、白い蝶が袖に舞っている着物にえんじ色の袴。
綺麗に化粧を施されたその顔は記憶の中の彼女とは似ても似つかなかったが…
「おじさんっぽくなったね、智にぃ。」
「おい。」
名前を呼ぶ声と笑った時に出るえくぼに懐かしい面影を見つけた気がしてやっと声をかけられた。
「久しぶり、菜乃花。」
「久しぶり。」
「聞いたよ。東京行くんだって?」
「そう!今度は、智にぃに見送ってもらう側だね。」
「だな。」
7年も経てば、生まれたての赤ちゃんも小学生になるし、小学生は成人になる。
それだけの年月が経ったのだと実感するには十分なほど綺麗な大人の女性になったことに勝手な寂しささえ感じてしまう。
「次会うときは結婚するときかもしれないね。智にぃ全然帰ってこないんだもん。」
「いや。結婚決める前に連絡しないとだろ。」
「え?」
「俺がどんな奴か見てやらないと。」
一瞬きょとん、としたあと菜乃花はたまらずといった感じで吹き出した。
「智にぃ、過保護~!」
「そこは私も会わせてもらわないと!」
「静香ちゃんまで!」
楽しそうに笑いあいながらじゃれあう妹二人。
突如胸に去来した寂しさを感じながら、これからもこの笑顔がさらに輝くような日々が続けばいいなと、心の底から願った。
「智にぃ、おじさんみたいな顔になってるよ。」
「一言多いぞ。」
啓蟄
菜虫化蝶(なむしちょうとなる)
青虫が蛹を経て紋白蝶になり、飛びはじめる頃。