鴻雁北
ふらつく足元を何とか踏ん張り、階段を降りる。
年々酒に弱くなっているのか、二日酔いになる機会が増えたように感じる。
若い頃のような無茶な飲み方をしているわけではないのに…
そのまま廊下を直進し、居間に入る手前を左に曲がり台所へと立ち寄る。
水切り途中の食器を横目に冷蔵庫の中からミネラルウォーターを手に取り、肩で軽く扉を押し戻す。
パキっという小気味い音を立てて緩むキャップを手中に収め、ぐっと喉に流し込むとその通り道がはっきりとわかるほどの冷気が体内を滑り落ちていくのを感じた。
「あら、おそよう。」
居間から顔を覗かせた祖母の手には愛用している急須。
台所に置いてある電気ポットからお湯を移し替え、そのまま元いた部屋へ戻っていく祖母のあとを追いかける。
こたつが撤去され、なんとなくすっきりしたように見える居間の食卓、いつもの場所に座った祖母の隣に転がる。
「パンツが見えとるよ。」
穿き古して緩くなったスウェットのゴム部分をぐっと引き上げられ、ついでにパチン、とお尻を叩かれる。
「いたい。」
「痛くない痛くない。」
「あー…だるい…」
うつ伏せに寝ていると、こぽこぽという音を立てて淹れられるお茶の香りが鼻孔をくすぐる。
「何茶?」
「かりがね。」
「…何?」
「葉っぱじゃなく、茎を使ったお茶のこと。」
「へぇ…初めて聞いた。」
「ちょっと前にお隣の佐野さんから京都旅行のお土産にってもらったのを、テレビで見て思い出してね。」
「テレビ?」
首だけを動かしテレビを見れば、旅番組なのかニュースなのか、数羽の群れが空を横切っている映像が映っている。
「これ京都なの?」
「違うわよ。鳥よ、鳥。」
「鳥?」
「雁っていってね、渡り鳥なんよ。冬は日本にいて、夏はシベリアのほうで過ごすの。」
「そうなんだ…でもなんでそれがお茶の名前になるの?」
「なんでも、海で休むために枝を咥えて飛ぶっていう言い伝えがあるみたいで、その枝と茎をかけて“かりがね”って言うらしいよ。ま、佐野さんの受け売りだけど。」
「なるほどねぇ…」
テレビの中では繰り返し、雁の群れが飛び立つ様子が映っている。
快適に暮らすために、臨機応変に住む場所を変える…なんという理想的な暮らし方だろう。
でも現実的ではない。
季節が来るたびに全てを捨ててまた1から新しい生活を始めるなんて到底できそうにない。
しかも道中は過酷な旅ときてる。
人間とは窮屈で不器用なものだ。
「まぁでも、雁が帰るってことはこれからますます暖かくなるってことだねぇ…」
「そしてまた夏がやってくるのかぁ…」
「そうね。もう少ししたら。」
同じ場所に留まり続けることは時に苦しいこともあるけれど、でもその分、些細なことに季節の移り変わりを感じ様々な景色を見ることができる。
「不自由には、不自由なりの楽しさってことかぁ…」
「??なんか言った?」
「なんも。」
「そう。あんたも飲む?かりがね。」
「かりがね、って言いたいだけでしょ?」
バレたか、と笑う祖母の笑顔を見ながら体を起こす。
過酷な旅路を行く雁の群れの安全を願いつつ、湯呑みから伝わる熱に息を吐き出した。
清明
鴻雁北(こうがんかえる)
渡り鳥よ雁が夏場をシベリアで過ごすため北へ帰っていく頃。