東風解凍
「あ…凍ってる…」
箒を動かす手を止めしゃがみこむ。
家の裏、今は使っていない植木鉢の中にたまっていた雨水が、朝の冷え込みでその姿を変えていた。
指先でつんつんと触ってみるが意外に厚いようで割れそうにない。
そういえばこんな風にわざわざ氷に触ったのは久しぶりだ。
子供の頃は引き止める大人の手を振り切って、凍った水たまりの上をわざわざ歩いたり、ザクザクとした感触を楽しみたくて、遠回りにも関わらず芝生の道を選んで歩いていたのに…
今では転ばないよう、怪我をしないよう、安全な道ばかりを探して歩くようになってしまった。
大人になった、と言ってしまえばそれまでだが、指先に感じる冷気に当時を思い出すと、ほんの少し寂しくなる。
ずずっと冷気が背中を駆け上ったのをきっかけに、膝に軽く力を入れて立ち上がる。
しばらく掃き掃除を続けていると不意に表が賑やかになり、母親がなんだか嬉しそうに私を呼ぶ声が聞こえる。
今日は来客の予定はないはず…と、箒と塵取りを片付けぐるりと回って声の方へ向かうと、玄関先にはひどく懐かしい背中が見えた。
母の視線につられるようにこちらを振り返ったその顔は記憶の中より少しだけ老けて見えた。
「…久しぶり…」
ぎこちない笑顔。
母に背中にを押されて一歩近づいてきた距離を、私からも一歩縮める。
手にはたくさんの紙袋。子供のころ好きだったキャラクターや、よく買ってもらったお菓子のパッケージが印刷してあって、この人の中で私は一体何歳のまま止まっているのだろうかと考えた。
「もっと…言わなきゃいけないこと、あるでしょ。」
「え?」
途端に困ったように八の字になる眉毛が、最後に見た記憶の中の顔と重なった。
泣きじゃくる私の頭を優しく撫でてくれた、懐かしく大きな手。
そっと手を伸ばしいくつかの紙袋を受け取り、一息ついて顔を上げる。
「おかえりなさい。」
見開かれた目がふにゃりと垂れ下がり、増えた目尻の皺をより深くしながら空いた方の手で私の頭を撫でた。
「ただいま。」
立春
東風解凍(はるかぜこおりをとく)
あたたかい春の風が、川や湖など冬の間に張った氷を溶かしはじめる頃。