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読んだ本=小説『丸の内魔法少女ミラクリーナ』(村田沙耶香さん)

最近読んだ本・読んでいる本について、残りの『52 ヘルツのクジラたち』『東京都同情塔(文藝春秋)』『丸の 内魔法少女ミラクリーナ』について書こうかなと思うのですが、村田沙耶香さんの作品だけで感想が長くなりそうなので、今回は『丸の内魔法少女ミラクリーナ』について紹介&感想を。

『丸の内魔法少女ミラクリーナ』は、村田沙耶香ワールド炸裂、衝撃の短編集 (4編)です。以下はWEB 紹介文から。

ーWEB 紹介文よりー
①「丸の内魔法少女ミラクリーナ」

OLの茅ヶ崎リナは、日々降りかかってくる無理難題も、魔法のコンパクトでミラクリーナに“変身”し、妄想力を駆使して乗り切っている。そんなある日、元魔法少女仲間のレイコが、恋人の正志と喧嘩。よりを戻すためには「レイコの代わりに魔法少女になること」を条件に出すと、意外にも彼は魔法少女活動にのめり込んでいくが⋯

② 「秘密の花園」
「見ているだけでいいから」と同じ大学の早川君を1週間監禁することにした千佳。3食昼寝付きという千佳の提案に、彼は上から目線で渋々合意した。だが、千佳の真意は・・・

③「無性教室」
髪はショートカット、化粧は禁止、一人称は「僕」でなければならない――。「性別」禁止の高校へ通うユートは、性別不明の同級生・セナに惹かれている。しかし女子であろう(と推測される) ユキから、近い将来、性別は「廃止」されると聞かされ、混乱する。どうしてもセナの性別が知りたくなるが、セナは詮索されるのを嫌がり⋯。

④「変容」
母親の介護が一段落し、40歳になって再び、近所のファミレスで働きはじめた真琴は、世の中から「怒り」という感情がなくなってきていること、また周囲の人々が当たり前のように使う「なもむ」という言葉も、その感情も知らないことに衝撃を受ける。その矢先、大学時代の親友から「精神のステージをあげていく交流会」に誘われるが・・・・・・。

   ◇    ◇

あらすじは上記のWEB紹介文の通りです。

①は、読んだときの第一印象は「これまた奇妙な作品だな」と。(他の作品も同様ではありましたが)

これに関しては、別の言い方をするなら「シュールが過ぎる」?
この作品は再読するとまた違った印象になりました。リナと正志とのやり取りが、最初に読んだ時の奇妙さよりも滑稽さ・可笑しさが勝り「あ、これは素直に笑っていい作品なんだ。シンプルにコメディなのかもしれない」と思えてくるほど。

そして、少女の頃から友だちだったレイコとは大人になった今もなお変わらず魔法少女仲間で、ピュアな子どもの心は持ち続けていました。 レイコの彼氏・正志と対峙するときの描写が痛快で心地よかったです。シュールという言葉が似合う面白い作品でした。

 36歳になってもまだ魔法少女を続けているなんて、当時の私が今の私を見たら、それこそぶったまげて即死するだろう。
 でも私は、今の日常をわりと気に入っている。妄想するだけならだれに迷惑かけるわけでもなし、お金がかかるわけでもない。無論、自分が本物の魔法使いではないことくらいわかっているけれど、こうやって日常を面白おかしく料理して生きていくことで、平凡な光景はスリリングになって、退屈しない。

『丸の内魔法少女ミラクリーナ』より一部抜粋

②は序盤から衝撃的でぎょっとする展開。終盤はちょっと気持ち悪さすらあったけど、次の恋愛のステップに進むにはどうしてもこの行為が必要だった、という千佳の中の論理は理解できなくもない。その手段の内容や程度は別として。描写が結構生々しいので、そこの部分は苦手な人がいるかもしれません。

③は、男女の性差が薄れてきた現代だからこそ、その性差がない(もしくはセクシャリティを感じない)世界だとしたら、人は何をもって人を好きになるのか・何をもって恋愛対象とするのか、という一つの疑問が出てくるわけで。
普通=異性愛という、従来より作られてきた概念・固定観念を覆すような、今の時代らしい作品なのかなと。

④は、漠然と理解はしたものの、言葉にして感想を述べるには案外難しい。ある種の感情も時代の風潮も何かしらによって意図的に作られているとしたら・・・。
何年かぶりにファミレスのパートとして社会復帰した主人公の真琴は、そこで一緒に働くアルバイトの大学生二人に違和感を持つ。「怒り」の感情がなくそれがどういうことかもわからないらしいのだ。
真琴が大学生のころは、バイト先に「エクスタシー五十川」という、いつも怒って説教してくるおせっかいな迷惑ババアがいて、真琴と親友でバイト仲間でもある純子はいつもそのエクスタシー五十川の悪口を言い合い、怒りを共有し発散させていた。彼女のエネルギーや自分たちのそのときの感情は、現在では原始人ほど昔の「古い感情」となっているらしい。

怒りがなくなった今、私たちには「かわいー」しか共感するすべがない。もし「かわいー」がなくなったら、私と純子はどんな感情を共有するのだろう。「悲しい」なのか、「怖い」なのか、「うれしい」なのか、もしもそれが全部なくなってしまったら? 不安になりながら、私は純子の黄緑色のネイルを指さして、
「うわーあ、純子のネイル、すっごくかわいー!」
と甘い鳴き声をあげた。

『変容』より一部抜粋

今の時代を生きている人は、ほとんどは昭和、平成、令和のいずれか、もしくはすべての期間に関わってきた人。大正時代に生まれた人もいるでしょうが、年齢にして98歳~111歳なのでごくわずか。
「流行」はどこからともなく自然に流行っているようでもあるけれど、そうではなく、どこかに「仕掛け」があって、必然的にそうなっているのかもしれないと思えてくる。
そんなふうに深く考えてしまった作品でした。

   ◇    ◇

村田沙耶香さんの作品は、少女から大人になるという思春期、もしくは思春期の少し前の低学年の、性に対する感覚や、子どもから大人になるグラデーションの期間というか、諸々の感覚の描写がすごい。

身体的にも年齢的にも成人にはなっているけど、内面的には幼い頃の心がまだ片隅に残っていて、そういう感覚が呼び起こされるような印象。

そして彼女の作品の主人公はたいてい女性だけど、一般的にいうところの 「普通」とは違う感覚も持っていて、そのあたりは「コンビニ人間」にも言えるのだけど、かといって自分たちが普通で、彼女らは全く別ものの性質なのかといえばわからない。

物語の主人公は、性格の核になる部分がより強調されて肥大化してしまったのかもしれないし成長と共に歪曲していったのかもしれない。とはいえ、部分的に見ると自分にも同じような側面を持っているようにも思えたりするので、村田さんの作品に出てくる主人公は次元が違いそうで違わないのかも。

この他にも、以前読んだのが『消滅世界』。「子どもを産む・子どもを育てる」概念からして昔とも今とも大きく異なる世界。いずれそういう世界が来るのかも・・・とすら感じる作品で、男女の恋愛や「恋愛」というワード自体がなくなっていくのではないかと思えてくる。

村田沙耶香ワールドはクレイジーと言われるけれども、そもそもどちらがクレイジーなのかわからなくなる、そんな世界観が彼女の作品の魅力です。


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