劇場版『忍たま乱太郎』と『ベルサイユのばら』を観て(エッセイ)

金曜日に、劇場版『忍たま乱太郎』と『ベルサイユのばら』を観た。どちらも、いい感じに脳を焼いてくれた。

劇場版『忍たま乱太郎』――土井先生が主軸の物語

『忍たま乱太郎』は、土井先生を中心に据えた話だった。
そういえば、忍たまってこんな感じだったなぁ……と、懐かしい気持ちになれたのがよかった。

土井×きり、てぇてぇ?(※尊いの意)

『ベルサイユのばら』――「自由」とは何か?

『ベルサイユのばら』は、漫画未読、過去のアニメもほぼ未視聴の状態で観た。
フランス革命を描いた作品であり、その内容は重い。

映画の中で、「自由」という言葉が重要なテーマとして扱われていた。
しかし、観ながらどうも引っかかった。
私が考える自由とは、少し違う気がしたのだ。

自由とは、「箱」に閉じ込められることではない。
かといって、法律を飛び越えて「禁忌」を犯すことが自由とも言えない。それは、自由の誤解釈だろう。

好きに生きても、必ずしも精神的に自由になれるわけではない。
人はそれぞれ、何かしらの楔を抱えて生きている。
その上で「自由」という言葉は、あまりに拡大解釈されやすいものではないだろうか?

そう考えると、真の自由なんて存在しないのかもしれない。
少なくとも、私はそう思う。

言葉の不自由さ

言葉は難しい。
言葉は所詮、入れ物にすぎない。

解釈は人それぞれだ。
だからこそ、言葉があること自体が不自由なのかもしれない。

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