DRB《データレイド・バトルフロント》第2話「茶園夏葉《ちゃぞの・なつは》の転入初日」

  *

 黒い渦が天から地へと迫り、世界そのものが大きく歪んでいく。

 空はひび割れ、砕けたガラスの破片のように無数の光のかけらをまき散らしながら降り注ぐ。

 空気はどこか淀んでいて、耳をつんざく轟音が鳴り響くたびに地面が狂ったように震えた。

 視界の端で、ビルらしき建物が音を立てて崩れ落ちる。

 地面には蜘蛛の巣みたいな亀裂が走り、そこから禍々しい闇が滲み出ているように見えて、ぞっとする。

 わたし――茶園夏葉ちゃぞの・なつはは、その信じがたい光景のただ中で、どうすることもできずに立ち尽くしていた。

 ――どうして、こんなことになっているの?

 声を出そうとしても、恐怖で喉が凍りつく。

 遠くから聞こえる警告音が赤黒い光と混ざり合い、まるで世界そのものが悲鳴を上げているかのようだった。

 背中の方で、何か嫌なものが這い寄る気配を感じ、わたしは思わず小さく悲鳴をあげながら後ずさる。

(逃げなきゃ……!)

 ――本能がそう叫ぶ。

 ここにいたら何かに呑み込まれてしまう。

 わたしは暗闇の中へ勢いよく走り出した。

 何が起きているか分からなくても、じっとしていられない。

 すると、背後からじっとりとした湿った音が聞こえてくる。

 粘液のような何かが地面を舐めまわしながら近づいてきているみたい。

 でも、振り向く勇気なんてない。

 強烈な風が吹き荒れ、黒い渦がうねる音が耳を刺す。

 足元が重く沈んでいくような感覚があり、背後には得体の知れない何かがいると直感的に分かった。

「――夏葉なつは!」

 不意に遠くから聞こえてきたのは、あたたかい声。

 ――大好きな人の声。

 振り向くと、暗闇の中から茶髪の少年がこちらへ走ってきていた。

 絶望しかないはずの風景なのに、その姿だけは光を放っているように感じられる。

 ――茶園朱夏ちゃぞの・あけなつ

 わたしの兄だ。

「お兄ちゃん……!」

 わたしは思わず手を伸ばす。

 しかし、その間を激しい風が吹き荒れ、あっという間に地面へ投げ出されてしまう。

「――手を伸ばせ! 絶対に助ける!」

 朱夏あけなつの声が大きな轟音を突き抜けて届く。

 すぐ目の前にいるのに、地面が崩れてわたしは黒い渦へ引きずり込まれていく。

 あと少しなのに、指先が届かない。

「もう……無理だよ……お兄ちゃん……」

 体が限界で、声も震えてしまう。

 視界が涙でぼやける。

 それでも、朱夏あけなつの目からはまだ諦めが消えていないように見えた。

 あんなに強い目、わたしには眩しすぎる。

「命がある限り、まだ終わってない!」

 ――兄のその言葉は、暗闇に押しつぶされそうなわたしの心を、ほんの一瞬だけ支えてくれた。

 でも、現実は容赦なくわたしをのみこんでいく。

「助けようとしてくれて、ありがとう……でも、さよなら、お兄ちゃん」

 荒れ狂う渦にさらわれて、わたしは朱夏あけなつの手を掴めなかった。

 触れられそうだった感触がすり抜け、冷たい風だけが頬をかすめる。

 深い闇へと落ちていく中で、最後に焼き付いたのは、朱夏あけなつの絶望に満ちた表情――それだけだった。

  *

 ……目が覚めると、いつもの部屋だった。

 薄いカーテンから差し込む朝の光が、かすかに揺れている。

「……また、同じ夢」

 わたしは急激に高まっていた鼓動を抑えるように胸を押さえ、ベッドに腰をおろす。

 この悪夢を何度見ただろう。

 夢にしても痛みがリアルで、わたしはいつも何もできないまま、兄を救えずに闇へ落ちてしまう。

 ここはわたしが暮らしている小さなアパート。

 今日は色取学院高等学校いろどりがくいんこうとうがっこうへの転入初日だけれど、朝からなんだか気持ちが沈みがちだ。

「でも……わたし、がんばるんだから」

 わたしは自分に言い聞かせるようにほっぺたをパチンと叩く。

 携帯端末を開き、写真フォルダを覗くと、幼い頃のわたしが笑っている写真が映った。

 ――本当は、そこに兄と一緒に笑っているはずだったのに。

 なぜか今はわたしだけしか写っていない。

「どうして……」

 昔のアルバムを見ても、兄が映っている写真は見当たらない。

 まるで世界が、兄の存在を消し去ってしまったように感じる。

 でも、わたしはあきらめられない。

 兄は確かにいたはずなんだから。

「やばい、もうこんな時間!? 急がなきゃ!」

 時計を見て驚き、わたしは慌てて支度をする。

 アパートの階段をドタバタ降り、転入初日だっていうのに、すでに大ピンチの予感……。

  *

 角を曲がった瞬間、何かに勢いよくぶつかった。

 お尻を打って「あいたたた……」と声が出る。

 その視界に飛び込んできたのは、鋭い牙をむいた狼……?

 今にも飛びかかってきそう。

 転入初日の朝から、こんなのってあり?

 わたしはどうしたら――。

 狼が前脚を踏み出し、鋭い牙をむき出しにする。

 恐ろしくて、まるで体が固まってしまったよう。

 逃げなきゃいけないのに、足が動かない……!

(助けて……!)

 狼の牙がわたしの腕をかすめた瞬間、思わず悲鳴が出そうになる。

 だけど――傷はなぜか、すぐに消えてしまった。

 えっ、どういうこと……?

 呆然としていると、黒い装束をまとった死神のような影が目の端に映る。

 冷たいオーラを放つそれは、タロットカードに描かれた死神みたいな姿で、低く囁くように言った。

「――消えろ」

 すると、狼は黒い瘴気をまといながら、霧のようにかき消えてしまう。

 わたしが「だ、だれ……?」と声をかけるより先に、死神のようなそれも闇に溶けるように消えた。

「な、なに……いまの……」

 まるで現実感がなくて、頭の中がぐるぐるする。

 でも、時間は待ってくれない。

 わたしは震える足をなんとか動かし、転入初日の学校へ向かうしかなかった。

  *

 学校法人色取学院がっこうほうじんいろどりがくいん

 ここは、幼稚園・小学校・中学校・高等学校・大学が同じ敷地に建っている大きな総合学園で、校内はとてもとても広い。

 門の「色取学院高等学校」と書かれたプレートを見上げながら、わたしは大きく深呼吸した。

 すでに入学式は終わってしまったらしく、人だかりが体育館から出てくるのを横目で見る。

「はぁ……やっぱり遅刻……」

 沈む気持ちをどうにか奮い立たせようとするけれど、朝の狼や死神のことが頭をぐちゃぐちゃにしている。

 そんなとき、背後から声をかけられた。

「もしかして、今日から転入してくる茶園夏葉ちゃぞの・なつはさんですか?」

 振り向くと、灰色の髪と瞳を持つ、中性的な雰囲気の男子学生が立っている。

 優しそうな笑みを浮かべる彼に、わたしはほっと胸をなでおろす。

「は、はい。わたし……すみません、朝からいろいろあって……式に間に合わなくて……」

「大丈夫ですよ。先生には僕が伝えておきました。実は僕、灰野真冬はいの・まふゆって言います。二年生で、今日から茶園ちゃぞのさんの案内を任されてるんです」

灰野はいの……真冬まふゆくん……? 本当によかった……ありがとうございます」

 わたしが頭を下げると、彼は静かに微笑んだ。

 こんなわたしでも責めずに受け入れてくれるなんて、なんていい人なんだろう……。

「何か事情があったんですよね。気にしないでください。教室まで案内しますね」

「はい……すみません、よろしくお願いします」

 朝からの大騒動を話せるわけもなく、心苦しいけれど灰野はいのくんの優しさが本当にありがたい。

 少し涙が出そうになるのをこらえながら、わたしは彼のあとをついていく。

 校内は想像以上に広大で、人の流れも多い。

 小学生らしき姿から大学生らしき大人っぽい姿まで、一つの敷地に集まっているのは圧巻だ。

茶園ちゃぞのさん、朝からお疲れだと思うけど、ここが職員室で、あちらが保健室……購買部はあの角を曲がった先ですよ」

「わぁ……本当に広いんだね。迷わないように気をつけなきゃ」

 わたしは半ば感心しつつも、頭の中には兄のことがちらついて落ち着かない。

 この学校で何か手がかりを見つけたい。

 わたしはそう信じて転入してきたのだ。

「何か困ったことがあれば、いつでも言ってくださいね。先生たちは親切な人が多いから」

「うん……ありがとう」

 ――さっきの狼とか死神とか、誰に言ってもきっと疲れてるんじゃないの? で終わるよね……。

 わたしは話せない秘密を抱えたまま、決意をかき立てる。

 ここで諦められない。

「着きましたよ。ここが二年生の教室棟です」

 灰野はいのくんの言葉に顔を上げると、窓の向こうにクラスメイトらしき人々の姿が見える。

 クラス番号を確認して、ここがわたしの新しい場所……と胸がぎゅっと高鳴る。

「ここで、わたしの青春が始まる」

 心の声が漏れてしまったのか、灰野はいのくんはくすっと笑って頷いてくれる。

 ほんの少し緊張がほぐれた気がした。

「大丈夫。絶対に何かあるからすぐ言ってね。じゃあ、入りましょうか」

「……? う、うん? ありがとう……?」

 絶対に何かあるって、どういうこと?

 わたしは深呼吸をして、ドアノブを握る。

 期待と不安を胸に、転入初日の教室へ足を踏み入れた。

 ところが、扉を開けた瞬間、想像していた平和なクラスはあっさりと崩壊していた。

 数人の不良生徒らしきグループが大声を張り上げながら、わたしのクラスで暴れ回っているのだ。

「おいゴルァッ! 勝手に見物してんじゃねーよ!」

「はぁ? なんだよ、文句あんなら言ってみろや!」

 ガンッという大きな音がして、机が蹴り飛ばされる。

 クラスメイトたちは一様に怯え、悲鳴が上がっていた。

 灰野はいのくんも思わず立ち尽くし、わたしをかばうように前へ一歩踏み出す。

(な、なに……? これが……わたしのクラス……?)

 わたしは呆然とするしかない。

 狼や死神のような非現実に襲われたばかりなのに、今度は現実の暴力を目の当たりにするなんて……。

 クラスのあちこちから悲鳴が上がる中、不良たちはさらに勢いを増すみたいに椅子を倒したりして荒れ狂っている。

 わたしはどうしたらいいのか分からず、扉の近くで立ちすくむだけだった。

(これが……わたしの新たな青春の始まり?)

 ぐちゃぐちゃの頭を抱えながら、ただ目の前の現実を受けとめられずにいる。

 兄を探しに来たはずなのに、なにこの展開……わたしは大丈夫なの……?

 クラスメイトたちも混乱し、灰野はいのくんは、また始まった……というような顔をしていて、これが日常茶飯事であることをわたしは理解する。

 あまりにも無力な自分が情けないけれど、足がすくんでどうしようもない。

 転入初日で、こんな荒れた現場に出くわすなんて、誰が想像できた?

 今にも泣きそうな気分だ。

 ――兄を探そうと決意したわたし。

 けれど、その第一歩すら踏み出す前に、こんな大ピンチが訪れるなんて……。

 教室の中は混乱の渦。

 わたしはその惨状をどうすることもできず、呆然と立ち尽くすしかなかった。

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