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エッセーです。
以前某所でマクドについて書いた。またこのnoteでもマクドについて書いたことがある。 したがって、タイトルに「続」が付いている。続が着くと駄作になるという向きもあるかも知れないが。 私を知る人は既にご存じかも知れないが、私はマクドが好きだ。まずはこれを表明しておく。 今回マクドについてまた書くのは、マクドのあるCMを見たからだ。 「マックは、ホームシックにすこし効く。」 という言葉を添えて、慣れない都会にやってきた女性が見慣れた看板のマクドに入り、家族で来たことを思い出しつ
歓喜せよ。あの凄まじい夏が去り、今やようやく秋である。 ドアを開ければその瞬間から、全然ハビタブルではない太陽系第三惑星の大気に圧される生活。さながらエアロックのように、外へ出る覚悟を決める場所であった玄関。そんなものは全て過去のもの。そんな旧世の遺物は涼やかな秋風に吹き飛ばされて見る影もなく。今や外の世界にいかなる困難も存在せず、エリジウムでエデンで桃源郷こそがここにあります。 何らの生産もしない学士風情です。 さながら織機の飛び杼のように研究室と家とを往復する日々にあま
先週、ベルリンで知り合った中国人の学生が日本に来ていたので彼とご飯を食べたり、それから京都観光をしたりしていた。 もちろんコミュニケーションは、旧世紀来世界を席巻して止まないリングワ・フランカたる英語によった。それにしても、フランカといいつつ彼の国の栄光は今や昔。さらには英の英たる国ですらなく米によるパワーによって広がる英語であることを思えば、げにげに諸行無常。 さておき、数日間殆ど英語のみを使っていたのである。つきっきりの英会話教室と思えばそんなに悪くないだろうか。いや、
さて、感想を書く前に要約を書くのが習わしであるが、この本の内容は著者のこの2行に言い尽くされている。 本書は趣味の一つとしての読書を、自分自身とは離れた文脈に触れる機会であるとしている。読書と働き方についてのレビューから、最終的には社会構造の変革こそが働きながら本を読めるようになる方法であるという主張にまで踏み込む。 そう、実はこの本、働きながらでも本を読める方法のハウツーを教えてくれるわけではないのである(あとがきにちらっと出てくるが)。非常に戦略的な本書は、実は明確な思
この文章を書く今も、頭の中からボレロが離れない。 ボレロはとても好きな曲で、そもそも小さい頃にNHKの夕方クインテットで聴いたのが初めてだろう。小さい頃にも好きだった記憶が朧にある。 ボレロの素晴らしさは、やはりあの繰り返しのメロディと一貫したクレシェンドである。そしてまた、それらが全てエンディングを引き立たせるものとなっていることであろう。 常々、私はホイジンがの『ホモ・ルーデンス』を褒める時に、まるでボレロのようだという。今回は珍しく逆となるのだが。『ホモ・ルーデンス』
一日が千秋であれば、既に千五百の秋が去っていったことになる。 常々、酔っ払うの”ぱらう”とは何だろうと思っている。何であれこのぱらうというのは酔っ払いの口を楽しませる。よっ、と来て、ぱらってる、と行く時には、なにやら舌が弾むようである。 この頃は秋の来るのも十や百で、すっかり安心しきっていたものを。 ロキソニンやらアセトアミノフェンが優しい。バファリンは財布に優しくない。胃か大腸か知らないが、優しさが沁み渡るようである。頭痛も吐き気も、凡そそのような酒の楽しくない部分を消し去
遠く雷が鳴る季節である。 この、遠くから迫るような音を聞けば、思い出すのはゴジラの冒頭。その後は大抵ひどい土砂降りになるから、ゴジラのモチーフからは案外遠くもなかったりするかも知れない。そんなとき、ちょっと気分が上がるのは、ゴジラが好きなのと、遠雷にまつわる素敵な歌々と、それから躁的防衛というやつらしい。躁的防衛というのを習ったのは母校の国語の先生の授業である。基本的に面白くなかった授業の中で記憶に残る二、三の先生の一人だった。 ともあれ、ゴジラはゴジラ、雨は雨、そして夏は夏
このタイトルで察しがついた人もありましょうか。今回は映画の感想です。 そして察しがついた人は何を今頃と思うでしょうが、しかし何を隠そう再上映されてたので先程観てきた次第です。 そもそもこの映画を知ったのは一年半前に下北沢のカフェでした。チラシが置いてあったのです。A4裏表のやつでした。見ればしかも主題歌がラッキーオールドサン。ある種の悲劇です。もう既にこの映画は上映期間を終えていたのにも関わらず、チラシを手に取った時からどうしようもなくこの映画を観たくなってしまったのですか
新10000円札とは、すぐにお別れしてしまった。 それというのもどこで使えないか分からないので、旅先でもあるから崩してしまわざるを得なかったのです。 新しい顔は渋沢さんで、私は彼がそこそこ好きです。ついては叶うことならずっと一緒にいたかったんですが。瀬を早みとは言わずとも、どうにも運命というのはままなりません。 ところでこれを崩したのは天下のセブンイレブンです。自動精算機で使えるか逡巡していると店員さんに使えますと自信みなぎる後押しを得て、果たして渋沢は英世達と一葉女史に姿を
太郎氏が全身全霊をかけたドロップキックを喜色満面で繰り出しているそんな時、私のはせいぜいが右ストレート(それも体重を残して左手を顔の横にした形で)とかだろう。 雑なまとめ方をお許しいただきたいが、本書は「自分として純粋に生きること」、「無条件に生命をつき出し爆発する」ことのススメである。 彼の本、『自分の中に毒を持て』を読み始めた時、その姿がチャールズ・ストリングランドと重なった。モームの『月と六ペンス』の登場人物である。彼は画家で、絵の為なら何であれ犠牲にするし、それは「
2時間で読んで、30分余韻に浸って、今、これを書いています。 素敵な素敵な小説でした。 光と影という表現があります。 本作の二人の主人公は、ほんの一時だけの重なって、正にその光陰を繰り返します。 光が当たる天音の影に落とされた冴理。天音は初めて読んだ小説、冴理の小説を聖書として、冴理は天音の小説に受難し、十字架を背負いながらすれ違いや回り道を繰り返して坂を登り、最後には互いに感情を束ねたブーケを投げ返すのです。赦すとか赦さないとかではなく、最初から神に赦されていたし愛されて
これは現実か、はたまた幻にすぎないのかみたいな歌詞から始まる歌があった様に思います。『夢の中』はそういう映画でした。 映画はある男女の会話や仕草ややり取りを通じて展開します。終始不思議な、正に夢現な雰囲気の中で、ストーリーらしきものが何となく見出され、ラストシーンでは像を結ぶようにはっきりと物語が前に進みます。 本作はコミュニケーションをテーマにしたそうですが、主役二人が話す会話の食い違いは夢の中の会話を思わせながら、また現実でも往々にしてそんなもんかもなとも思わせます。
JASRACが怖いので、本稿は引用を避けて、頑張って書いてみる。 ので、読者諸賢も頑張って読んで欲しい。 カントリーロードについてである。 カントリーロードという曲が大好きである。 もちろん『耳をすませば』で知ったクチである。これもまた名作で、それも相俟ってこの曲が益々意味を増して輝きを増している。 拙稿『続マクド』で書いたが、耳をすませばで描かれる風景は私の地元によく似ている。郊外住宅地というやつである。そしてこのカントリーロードという曲はこの土地を故郷として歌っている。
駅そばについて書きたい。書きたいが、実のところ蕎麦はそんなに好きじゃない。 という話で書きすぎてしまった。唇寒しである。 私的麺類ランキングの中でもほとんど最下位を占めるのが蕎麦である。別に嫌いというわけでもなくて、ただ他の麺類に及ばないだけで万年下位の不遇な麺である。 例えばラーメンは、味が濃くて種類もあって美味い。出汁に脂はもうほとんど鬼に金棒に近い。二日酔いの時など絶好である。 そしてうどん。うどんは麺にコシがある。啜った時の口の具合が、そして更には喉越しが、食っても
この年末は碌なもんではありませんでした。返す返すも碌でもない。ほとんど良いことが無かったと言っても過言ではないでしょう。 まあ半分ほどは身から出た錆とは言え、それにしても碌でもない。 碌でもない碌でもないとは失恋のこと。失恋のこととは思いが叶わなかったこと。世も末ながら、愛故に人は苦しまねばならんのでしょうか。私の年末は悔いばかり、恥ばかり。恥の多い人生とは言いながら、彼はモテモテだったじゃあないかと餅を焼くばかり。それならばグッドバイとでも泣き喚きながら京都の街を走り去りた
湿っぽい、何も上手くない文章を書きました。 今じゃないと書けないと思ったので書きました。 関係者以外はぜひ読まないでください。 関係者の方は、読んでも、すぐ忘れてください。 なぜ、政策学研究科に入ったのかと聞かれれば、専門性を深めるためと答えます。 政策学研究科に入って何が良かったのかと聞かれれば、この素晴らしい先輩方と会えたことだと答えます。 大学院に入ってからと言うもの、尊敬できない先輩はいませんでした。 どの先輩も、自分の考えを確固として持っていて、それぞれの生き方