カントリーロード
JASRACが怖いので、本稿は引用を避けて、頑張って書いてみる。
ので、読者諸賢も頑張って読んで欲しい。
カントリーロードについてである。
カントリーロードという曲が大好きである。
もちろん『耳をすませば』で知ったクチである。これもまた名作で、それも相俟ってこの曲が益々意味を増して輝きを増している。
拙稿『続マクド』で書いたが、耳をすませばで描かれる風景は私の地元によく似ている。郊外住宅地というやつである。そしてこのカントリーロードという曲はこの土地を故郷として歌っている。歌われるこの故郷の風景を聞けば、ありありと私の町が思い浮かぶ。山を削ってできた丘を曲がり道が巻いていてそこを車が上る。私はそこを通って図書館に向かったのだし、電車賃を浮かせたのだし、友達に会いに行ったのだ。滑り止めの丸い溝が並び続く路面が、夏にはむやみに照って辟易したものだ。
このカントリーロードの曲は、映画内でも言われるように元は英語の曲である。
故郷を歌うのに天国だといえるのは何と幸せなことだろうか。
とはいえさすがに、具体的な風景については日本生まれの私なれば中々共感しづらい。ブルーリッジマウンテンもいまいち描ききれないし、シェナンドーリバーも、リバーはジャストアリバーである。
それが見事に私の故郷の歌にまで翻訳されているところに日本語詩の素敵さがある。
「故郷」という字を読者諸賢はここまでなんと読んだだろうか。別になんでもかまわないが、1つには「ふるさと」と読む。
ふるさとと言えば「兎追いし」であろう。ご存知かどうか、実はあれは三番まであって「こころざしをはたして いつの日にか帰らん」と続く。
カントリーロードはこの現代訳と言える。
故郷を離れ、果てしない夢を追い続けながら他所の土地から思いを馳せる内容が、これもまた映画の内容と重なる。兎も小鮒もいなくても忘れがたき故郷を思いながら、自分の立志を果たすべく歩いていく。厳つい内容である。坂道を登り切るとようやく一人前になって、一旗揚げて、故郷に胸を張って帰れるのだろう。それまでは多分、元気です、とだけ連絡を寄越して。きっとそういう覚悟が詰まった厳つい歌なのだ。
英語版は故郷に昨日にでも帰るべきだったと歌う。面白くもない田舎を捨てて都会に出て、故郷こそ天国だったと悟った時に、とって返しているように聞こえる。何か捨ててきた故郷に意地を張っていたのがふっと緩んだような、角が丸くなるような歌である。日本語版が丸いのを無理矢理角張って踏ん張ってっているのと対照的である。人生の時期によるのかも知れない。
ところで『ニューシネマパラダイス』をご存じだろうか。これも名作映画で、私は大好きだ。
そういえば天沢くんが向かうのもちょうどイタリアだった。
以下この映画のネタバレをする。
というかもう何年前の映画だという映画だし、名作故に見ている人も多かろうということで、またそもそもあの映画の本質的な良さはストーリーのみにあるのではなくて擬似的に人生を追うことで得られるものであるから、そのような次第でこれを言い訳にしてネタバレをする。
さて、既に読みたくない人は離れただろうか。
主人公が故郷を去るときである。おっちゃんがここへは帰ってくるなよと、お前は外で頑張るんだと言い含めて見送る。
次に主人公が帰るのは、おっちゃんが死んだ時である。
素晴らしいあの広場は車に占領され、故郷は面影を漂わせながらも昔のようではない。切り捨てようと踏ん張ろうと、いつしかほとんど天国とまで心の中で美化されていく間に、年年歳際とか花ぞ昔のとか言いつつ、無情にも姿を変えて。帰れば海辺の道が車の道になったりしているのだろう。
ふるさとは遠きにありて思ふものだろうか。
忘れ物とか悔やむ物とか、京都からなら特に不便無く戻れるけれども、距離こそがずんぐりむっくりと故郷を天国にまで育ててくれるのだろうか。
今や、クラークスビルへ行くにせよ心の旅だろうとも汽車など使う必要もなければ遠くで汽笛を聞くこともない。夜行バスでも鼻歌気分で帰れる。故郷は遥かと言えども、上海でもニューヨークでもない日本の中なら、その気になればすぐだろう。
さはさりながら、皆故郷を思って歌うのである。
李白は月に故郷を思い、酒に酔ってついに月を掴もうと入水したらしい。夢などせいぜい楽隠居ならば京都くらいの距離がちょうど良いのかもしれない。