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英語の悪口

先週、ベルリンで知り合った中国人の学生が日本に来ていたので彼とご飯を食べたり、それから京都観光をしたりしていた。
もちろんコミュニケーションは、旧世紀来世界を席巻して止まないリングワ・フランカたる英語によった。それにしても、フランカといいつつ彼の国の栄光は今や昔。さらには英の英たる国ですらなく米によるパワーによって広がる英語であることを思えば、げにげに諸行無常。

さておき、数日間殆ど英語のみを使っていたのである。つきっきりの英会話教室と思えばそんなに悪くないだろうか。いや、そんなことはない。そもそも別に英語の上達というもの、そこまで欲するところではない。
まずもって、英語で溢れるほどしゃべったとて日本語のそれより三分の一どころか、億分の一も伝わらない。対話しながら思考を深めるなど出来ようはずもなく、知識の伝達のみに留まる。
これはただ、経験をひたすら共有する事である種のチューニングが出来る。そもそもの言語の成り立ちを思えばさもありなんというところだろうか。言語は事象の兆しなれば、事象を共通の経験から持ってくれば兆しを共有出来るのだろう。
とはいえ限度がある。
それは私の英語力が大いに不足しているからであるというのは勿論先刻承知。然りながら、膨大な資源を投入してこれ以上の英語力を求めることの効率の低さよ。

それから英語を話すためには頭をそっくり取り替えなければならない。OSをWindowsからMacintoshに変えるようなものだ。それにはまずダウンロードの為の時間がかかる。つまり何日か前から英語のPodcastを聞いたりして英語モードに切り替えていく必要がある。終わった後も大変だ。これを日本語に戻さねばならない。数日間も英語を使えば、大抵の場合致命的に日本語が破壊される。つきっきり英会話の場合、最初から英語で考えた文章を発話せざるを得ない。それは時間的制約によるのだが、つまるところこれは伝えるべき経験・知識・クオリアを日本語で中継せずに英語にする行為である。そうすると何が起こるか。クオリアと日本語の中継が致命的に破壊されるのだ。おまけに相づちのタイミングも英語ナイズされる。ここに今、伝えたいことがあるとしよう。それが英語にも日本語にも結びつかずに単なる感覚としてしか存在しない状態になる。芸能人の顔が浮かんで名前が出てこない状態に近い。より正確には、ある芸能人の業界での立ち位置やツッコミかボケか、イケメンかそうでないかなど属性だけが浮かんでいて条件的には絞り切れているのに肝心のそれを表す名前が出てこない、というような。かくして、やたら相づちが多いくせに自分が話す段になると何も言えなくなる人間が完成するのである。
かくして今リハビリに取り組んでいる。このように文章を書くのもその一環である。

このように、英語で話したとて百害あって僅か一理である。
ただちょっと良いこともあって、日本語が破壊されたので寝る前に布団で考えることもできなくなり、寝付きが格段に良くなった。快眠である。であるのだけれど。
今後も必要に迫られない限りは英語で話したくない。

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