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娘の朝に思い出す事など
最初に断っておくが、今回のエッセイは、かなり親ばかな記録である。
ある程度はそのことを自覚しているつもりだが、思ったことをそのまま綴りたい。
保育園の送迎。
この時期に多くのパパ、ママを悩ませるものの一つだ。
私も漏れなくその一人である。
先日、二歳の娘が保育園に入園した。
保育園に送り届けるのは私の役目である。昨日から出勤前に娘と園に行く生活が始まった。
一日目、娘は泣かなかった。
私が保育士の先生に引き渡すと、抱っこされて教室に連れて行かれた。離れたところから覗いていると、きょとんとした顔をして立っている。状況がよくわからないのだろう。それを見て安心してよいのかわからないが、「ごめんね……」と心で呟いて、その場を後にした。
仕事から帰ると、真っ先に娘のところへ駆けつけた。すると、いつもと変わらずに、にこにこと「パパ、遊ぼうよ」と笑いかける姿があった。しゃぼん玉のような温かさと儚さを湛えて。
思わず抱き上げて、ぷくぷくに膨らんだ頬に手を当てた。
そして何度も保育園のことを訊いたが、何も答えてはくれなかった。
連絡帳には先生から、娘がその日しばらく泣いていたことが書かれていた。
翌日の朝、なんとか私の車に娘を乗せて、保育園へ向かっていると、
「先生とこ行かない、ママとこ行く」
と言い出した。
「ママはお仕事だよ。先生はやさしいし、◯◯ちゃん(娘)のことも大好きだよ。大丈夫だよ。保育園は楽しいからね」
安心させるように言葉をかけるも、内心では私自身も心配で胸がいっぱいになっていた。
園の教室の前に着くと、娘は行く手を阻むように私の前に立った。毛布を口元に当て親指を吸いながら、こちらを見上げている。なんて透き通った目をしているのだろう。
これまで、娘が泣いたり困ったりすることがあったなら、
「おいでおいで、どうしたの?」
「よしよし、大丈夫だよ」
「うんうん、大好きだよ」
などと言って、いつも抱きしめていた。
でも、そうはいかないのだ。少しでも安心できるように、笑顔で送り出さないといけない。
抱きしめたい気持ちを抑えて、娘のふわふわした髪をつぶして滑らせるように、頭を撫でた。
心を抑えなければならない。また、「ごめんね」と心で呟いた。
先生に預けて抱っこしてもらうと、娘は私の方へ両手を伸ばして、
「パパ、パパ、パ……パパーー!!」
と、大声で泣き叫んだ。
私は笑顔で教室から離れた。
車に向かって歩を進める。娘はまだ泣いているだろう。
今、どんなことを思っているだろうか。生命の危機を感じているだろうか。自分を危険にさらす残酷な父だと思っただろうか。
いつ何がきっかけで泣き止むだろう。先生と何か話をするだろうか。周りの子から嫌なことをされないだろうか。
昨年から幼稚園に通い始めた、息子の送迎を思い出す。妻の用事があるときは、私が代わりに送迎をしていた。
幼稚園に行く日、息子はいつも朝から癇癪を起こして、
「行かない! 行かない! 行かない!」
と泣きわめいた。いつも車に乗せるまで一苦労で、それだけで疲弊してしまう。
だが、幼稚園の先生の姿が見えると、別人のように変わった。ロボットのように表情なく淡々と自分の支度を始める。
先生に「はい、パパいってらっしゃいって、手を振って」と言われると、ニコッと笑って手を振る。その笑顔も決して家では見せないものだ。作り物であることは一目瞭然である。息子の目をよく見ると、いつも涙を溜めていた。その涙を零さないように必死に堪えているのだ。
今でも毎日のように癇癪を起こすが、この日々の息子の気持ちを思うと、あまり強く叱れない自分がいる。
車のエンジンを付け、職場に向かう。
次にぼんやりと頭に浮かんできたのは、動物園の猿山で見た、ニホンザルの親子の姿だった。
母猿は子猿を体で匿って、危険から身を守る。他の猿が近づいてこようものなら威嚇する。子猿も母猿から離れては戻ってを繰り返し、触れているときは安心しているようだ。
私はあの姿が好きで、動物園に行くと猿山の猿たちを何時間も見てしまう。
本当は、子どもたちを匿って、この安全で狭い世界から出さないようにしたい。
彼らを傷つけるものや、悪い影響を及ぼすものから距離を置いて、この世の明るい部分だけを知っていてほしい。
こんな残酷なことを考えてしまう。
子どもたちの可能性を奪うことであると、わかっているのに。
愛情と暴力は紙一重だ。
親は子どもの自立を助けていかなければならない。社会で自分らしく生きていくために、世界を広げていかなければならない。
少しずつ子どもの手を離していくことは、親の役割である。
そのことを今より喜べるときが、いつかきっと来るのだ。
ときに、私の弱さや不器用さで傷つけたり悲しませたりすることがある。だが、世界は子どもたちをもっと深く傷つけることもあるし、家族が決して見せなかった汚さを見てしまうこともあるだろう。
そのときに彼らが動揺してしまう姿を想像する。どうか慣れないでほしい。弱いままでいい。子どもたちがそんなものに染まらないで生きていけるように、できるだけ長く支えさせてほしい。
いつか、君たちの見える世界を詳しく聴かせてくれないだろうか。
長い時間、何もせずにぼーっと。猿山の猿たちでも眺めながら。
家に帰ったら、子どもたちを抱きしめよう。