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サボテンと猫、育む【短編小説】【5000字】
また恋人にふられた。目の前の景色にフラッシュバックを起こして、ため息をつく。半年前にもこうしておなじカフェで麻美子と向かい合わせに座り、ふられたことを報告したような気がする。
麻美子のお気に入りのグリーンカフェはカフェというより、植物園みたいだ。窓のふちにはツタが伸びて、天井は草木に覆われている。どうやって水やりをしているのだろう。そもそも本物なのだろうか。全体的に大きめの設計された窓からは目一杯に皐月の穏やかな日差しが注がれていて、こうしている間にも成長し続ける植物にいずれ飲みこまれてしまいそうだなと思った。
「突然、呼び出してごめんね」麻美子は口角を少しだけ上げて窓の外へからこちらへと視線を戻してほほえんだ。顔を動かすと、日差しの反射で長い黒髪が艶めいて光った。髪がかかっている左耳ではつらら型のシルバーピアスが一緒になって少しだけ揺れた。麻美子の白い肌にはシルバーが映える。また綺麗になったなあ、と彼女の横顔を見つめて思う。心なしか麻美子の周りだけ緑は青々しい気がした。呼び出された理由はおおかた予想がつく。カップをもった麻美子の左手を見て、さっきよりも大きめのため息がでた。
「ニホンザルの檻の前で、プロポーズされたの」と麻美子は言った。プロポーズとはほど遠い単語に思わず、飲んでいた紅茶を吹き出しそうになる。麻美子の口から聞く「ニホンザル」はとても高尚な生物のようで、わたしの中の赤黒いお尻がかなりグロテスクな「ニホンザル」とはおなじとは思えなかった。これは麻美子なりのジョークなのか、それとも真実なのか。真実であれば、笑っていいのかもわからず、なにそれと言って、紅茶を味わいなおした。複数の茶葉でブレンドされているというカフェのオリジナルティーは薬草みたいな味がする。
「その日はね、動物園でデートをしたあと、ホテルでディナーをする予定だったの」麻美子は続けて言った。
「だけどね、あの人ったらニホンザルの毛づくろいを見て、感動したらしくって、突然よ。檻の前のベンチで座ってたら、指輪なんか取り出しちゃって。後から聞いたらね、今しかないって思ったらしいの。なんかあの人らしくって笑っちゃった」そう言うと、麻美子がくすくすと思い出し笑いをしはじめたたので、笑っていいことだったのだとわかって、一緒になって笑った。麻美子はあの人らしいと言ったけれど、それでプロポーズを受ける麻美子もよっぽど麻美子らしい。
「わたしもね、ニホンザルたちを見ながらこの人だったらおじいちゃんおばあちゃんになっても、わたしの毛づくろいをしてくれるかもしれないなって思ったの」あ、もちろん逆もよ。とフォローを入れる麻美子はだれに言い訳をしているのだろう。頬を赤らめる麻美子の左手の薬指には婚約指輪が自然とそこにあった。まるで定位置のように思えるのが不思議だった。麻美子に指輪が似合っているということだろうか。麻美子の彼氏改め、婚約者のマサさんにそんなセンスがあったとは知らなかった。本人不在にもかかわらず、そこは入り込めないふたりだけの世界になってしまった。わたしはすっかり居心地が悪くなって、トイレに行くといって、席をたった。
席へ戻ると、麻美子は窓際に置かれたサボテンを見ていた。わたしが席についても見つめたままなので、麻美子聞いてよ、と声をかけた。「またふられたの」と私が言うと、しばらく黙り込んだあと、麻美子は神妙な顔をして「絶滅危惧種みたいね」と言った。
「絶滅危惧種?」
「尽くしすぎて振られる女なんて、現代にはもういないと思ってた」
「尽くしすぎたなんてひとことも言ってない」
「じゃあ、なんて言われてふられたの」
「お前は重いって」
「合ってるじゃない」そうなんだけど、そうじゃないの、とどんどん小声になるわたしをよそに麻美子は窓際を見つめている。
「これ、持って帰りなさいよ」と窓際に飾られたサボテンを指さした。
「サボテンなんかいらないよ」とわたしはサボテンを押し返した。植物なんてまったく興味ない。グリーンカフェだって付き合いで来てるだけで、花の種類だってわたしはまともに知らない。
「小春はサボテンを育てて、愛の育み方を学んだ方がいいのよ」
「まるで愛の正体を知っているかのような物言いするけど、」結婚するってそんなに偉いの。たかが、手段じゃん。そう言いかけて、ことばをおなかまで引っ込めて、冷めた紅茶と一緒に胃液に溶かした。ことばが溶け切らない砂糖みたいにいつまでも残っている。これはきっと麻美子へ言うべきことばではない。
「気を悪くしたなら謝るわ」麻美子の手中にあるサボテンはわたしの知っている細長い姿ではなかった。
「サボテンを育てたら、愛の正体がわかる?」私が聞くと、麻美子はたちまち笑顔になった。
「ええ、サボテンは小春がいなくても勝手に育つのよ」
「それって、育てがいがないじゃん」
「それでいいのよ」
麻美子は店員に声をかけると、サボテンと伝票をもってレジへと向かった。わたしは席に座ったまま、さっきまでサボテンがあった窓際を見つめた。わたしの家にはあんな日当たりのいい場所はあったかな、とぼんやりと思った。
サボテンとの暮らしで難関になったのは水やりだった。サボテンと一緒に梱包されていたサボテンの育て方には、水やりはスポイトで2、3滴を一週間に一度あげてください。と書かれていた。冬場は休眠するため、二週間に一度になるという。砂漠とか乾燥した地域の生物なので当然といえば、当然なのだがそうなると、逆にどう育てていいのかわからない。麻美子には書かれたとおりにして何もしなくていいと言われていた。
何もしなくていいと言われると、何かしたくなるもので。わたしは霧吹きを引っ張り出してきて、それから毎朝サボテンに吹きかけた。霧状になっているのだから大した量ではない。棘に水滴が引っかかると、日差しに反射して季節外れのイルミネーションみたいだった。サボテンが美しいとそれだけで自分の行動が間違っていないように思えた。
梅雨がきても、毎朝霧吹きは欠かさなかった。何もしないことがわたしにはどうしてもできなかった。雨が降った日はなにもしないでおこう。はじめはそう思うのに、サボテンを見ると手をかけたくなった。雨の日は部屋の中も水分を吸って、ぐっと重たく感じる。光のない重たさにサボテンが押し潰されてしまいそうだった。だからこそ支えてあげたくて、水をあげた。与えていれば、強くなると思い込んでいた。
それからしばらくしてぐったりしてしまったサボテンを見てやってしまった、そう思った。まだ梅雨は明けそうにないから、窓際に置くだけではどうにもならない。これ以上、なにもしないことがサボテンのためだと思いつつ、居ても立っても居られなくてホームセンターへ足を運んだ。ホームセンターにいた店員には、できることは土を乾かすことくらいで、あとは根っこが腐っていないことを祈るしかないと言われた。
今すぐに帰ってそうしたかったが、今触れたら腐らせてしまいそうだった。どこかで時間を潰そうと調べてみると、ホームセンターにカフェが隣接していることに気がついた。どうやら猫カフェらしい。
中に入ると、広い割には客は誰もおらず、ただ10数匹の猫と男性の店員がひとりいるだけだった。男はメニューを運んでくる。
「ここにいるのは保護猫なので、多少気の荒い子もいますから、ご了承ください」と言われて、ふうん、とわたしは空返事をした。たしかによく見ると、傷のある子や足を引きずっている子などハンディが目立った。
「餌、あげられますか?」
「あ、メニューにあるので、」男はその先を言わなかった。メニューあるから、なんなのだろう。あげられるか、否かがわからない。仕方なく、メニューを開くと、カフェメニューの横に猫の餌一覧が書いてあった。わたしは一番安いドライのキャットフードとアイスコーヒーを注文した。運ばれてきたキャットフードを与えると、お腹がすいていたのか、猫たちは勢いよく食べはじめた。その姿は生き生きとしていて、与えていることがきちんと昇華されていくのを感じた。これだよ、これ。これこそが正しい愛だよ。
それから、家にいる時間ができるたびに保護猫カフェに行くようになった。サボテンの世話をしてしまわなくて済むし、とどまっていた愛が流れるとこを見つけたようだった。わたしは餌を勢いよく食べる猫の姿を見て欲求を満たしていた。店員の男は小池さんというらしく、いつもいる。客もいつもわたしくらいのもので、だんだんと会釈から、猫を見て、かわいいですねと言ったり、世間話をするようになっていった。
わたしは小池さんと動物園へ来ていた。梅雨の終わりごろ、いつものように世間話をしていると小池さんは「動物がお好きなら、動物園に行きませんか?」と言った。いいですよ、というと、笑った顔が満腹になった猫と似ていた。いつもは受け取らないマップを見ると、何度か来ていた割にどこにどの動物がいるか把握していないことに気がついた。
誘ってきた割に小池さんは何も言わなかった。はじめはわたしも話題を振ってみたりした。友人が動物園でプロポーズされたんですよ、しかもニホンザルの檻の前でってびっくりしますよね。小池さんははあ、とどこか上の空でこちらが、はあ、と言いたい気になった。
一番奥まで歩いていくと、檻の中にはハシビロコウがいて看板の横には繫殖が成功しました。というお知らせが写真とともに貼り出されていた。
「ねえ、わたしさ、絶滅危惧種を繁殖させる行為って嫌いなんだ」ハシビロコウの檻の前でつぶやいた。ハシビロコウはなにもいわない。
「それって人間のエゴじゃん。人間の環境破壊で命が奪われたっていうけど、自然の摂理でしょ。人間だって他の種族に追いやられて絶滅するかもしれないし。もしそうなったら、わたしならそこまでだって思うよ。見世物された挙句、望まない繁殖されられるなんてまっぴらごめん」わたしの声はさっきよりもおおきくて、何人かが遠巻きにわたしを一瞥する。ハシビロコウはなにもいわない。
「わたしもいつか絶滅しちゃってもいいよ。これからもサボテンには枯れるほど水をあげると思うし、寝てる猫を撫でまわして猫パンチされると思う」ハシビロコウはなにもいわない。
「ぼくも絶滅してもいいです」小池さんが喋ったのでわたしは驚いて、小池さんのほうを見た。
「あ、いや、なんでもないんです。すみません」
「どうして、なんでもなくないじゃん」これじゃあ、問い詰めてるみたいだ。小池さんがどうして、絶滅しちゃってもいいのか知りたい。横一文字に引っ張られた小池さんの口は開きそうになかった。歩こうよ、と言うと、はい、と小さく返事が聞こえたので、来た道とは別の道から出口へと向かった。
「さっきの、あれなんですけど」小池さんは唐突に口を開く人のようだ。あれというのは、絶滅してもいい、という発言についてだろう。
「うん」
「ぼく、も保護猫みたいなもので、いやほんと、死ぬ手前でした。詐欺にあって金も仕事もなくって、これは死ぬしかないなって思ってたんですよ。そしたら、あそこの保護猫カフェのオーナーだった、あの、おばあちゃんがいたんですけど、譲ってくれるっていうから、なんとか生計立てられたんです」まあ、まだ借金はあるんですけどね、と小池さんが笑った。
「そうだったの」
わたしは笑わなかった。わたしをみて、小池さんもすぐに真顔に戻った。
「保護された猫たちが羨ましいんですよ。小春さん、いつもごはんあげにきてくれるじゃないですか。いっぱい食べてる姿見て、ぼくもあんな風に受け取れたらなあって思ったんです。おばあちゃんにも、それだけじゃなくて、昔からやさしさとか、受け取るのがなんとなく怖くて、つくづく人向いてないなあって思うから、絶滅してもいいなって、思ったんです」小池さんがつっかえながら絞り出したことばがすこしずつずつわたしに染み込んでいく。
わたしもだよ、聞こえないくらいの声で、そう言ってみた。
受け取ることが苦手だと言った小池さんと、一方的に注ぎすぎるわたしが並んで歩いていた。わたしは小池さんを満たしてあげたい気持ちでいっぱいだった。小池さんにちゃんと水を染み込ませたい。植物は葉っぱに水をあげるんじゃなくて、土に水をあげるんですよ。小池さんは知っているかな。
小池さんの無防備な手が歩幅に合わせて揺れている。手には触れなかった。小池さんが、溢れてしまわないように。今はただゆっくりと隣を歩いていよう。梅雨に雨水を蓄えた木々は強まってきた日差しに負けぬようにと、背を伸ばしている。家のサボテンもわたしの愛に負けないようにせっせと根をはっていることだろう。もうすぐ、夏が来る。