温故知新(42)酒列磯前神社 大洗磯前神社 石船神社 静神社 少彦名命(少彦男心命 事代主命) 姫塚古墳 筑波山神社 日高見国 常世の国 普天満宮 ニライカナイ 豊城入彦命 彦狭島命
出雲大社と茨城県ひたちなか市にある酒列磯前神社(さかつらいそさきじんじゃ)(写真1)を結ぶラインの近くには、浦嶋神社(京都府与謝郡伊根町)、諏訪大社 下社 秋宮(長野県諏訪郡下諏訪町)、常陸国出雲大社(茨城県笠間市)があり、酒列磯前神社と日前・國懸神宮を結ぶラインの近くには、武蔵御嶽神社(東京都青梅市)や松平東照宮(愛知県豊田市)があります(図1)。酒列磯前神社は、主祭神が少彦名命で、配祀神が大国主命ですが、武蔵御嶽神社は、社伝によると、創建は崇神天皇7年で、武渟川別命が大己貴命と少彦名命を祀ったのが起源とされます。
皇居と富士山を通る鹿島神宮と日前・國懸神宮を結ぶレイラインと、日前・國懸神宮、酒列磯前神社、鹿島神宮を結ぶラインで三角形を描くと、日前・國懸神宮と酒列磯前神社を結ぶラインは、鹿島神宮とモン・サン・ミシェルを結ぶラインと直角に交差し、鹿島神宮とモン・サン・ミシェルを結ぶラインは、霊牛山 威徳院 極楽寺(栃木県大田原市)の近くを通ります(図2)。
茨城県日立市宮田町にある神峰神社は、伊邪那岐命、伊邪那美命を祀っていますが、元は神峰山山頂(奥宮)にありました。古くからある神峰神社境内社の稲荷森大神(とうかもりだいじん)は、保食神を祀っています。神峰神社とロドス島を結ぶラインは、神峰山や袋田の滝(久慈郡大子町)を通ります(図2)。ロドス島と酒列磯前神社を結ぶラインは、那珂市にある靜神社(常陸國二宮)の近くを通ります(図3)。
酒列磯前神社と関係が深いとされる茨城県東茨城郡大洗町にある大洗磯前神社(おおあらいいそさきじんじゃ)(図3、写真2)は、主祭神が大国主命で、配祀神が少彦名命です。近くの海岸には、祭神の降臨地と伝わる神磯の鳥居(写真3)があります。駐車場にある「烏帽子岩」は「さざれ石」のようです(写真4)。
恵比寿は大国主命(大黒様)と神屋盾比売命の間に生まれた子で、「事代主命」のことで、島根県松江市の美保神社は、三穂津姫命と事代主命(えびす)を祀っています。三穂津姫命は、神屋盾比売命(卑弥呼)と推定され、一寸法師の原型となった少彦名命も恵比寿という説があるので、事代主命と少彦名命は、同一人物だったと思われます。大洗磯前神社には、大黒さま、恵比寿さまの木像が置かれています(写真5)。
大洗町には、2020年に国の史跡に指定された3~4世紀の古墳時代前期から中期初頭の磯浜古墳群(大洗町磯浜町)があり、前方後方墳から前方後円墳、円墳と続く墳形の変遷は、ヤマト政権の影響が見てとれるといわれています。大洗磯前神社の近くに4世紀後半の円墳である車塚古墳があります(図4)。備前車塚古墳と同じ「車塚古墳」の名前の由来については、新編常陸国誌に「その体天子の山陵の如く宮車に類す、故に俗車塚とよべり」とあるようですが、車輪十字(太陽十字)に由来するのではないかと思われます。酒列磯前神社とギョベクリ・テペを結ぶラインは靜神社、阿波山の近くを通り、オリンポス山と大洗磯前神社を結ぶラインは石船神社(城里町)の近くを通ります(図4)。石船神社、阿波山、大甕神社(おおみかじんじゃ)はほぼ同緯度にあります(図4)。
阿波山(城里町)には、少彦名命を祀る阿波山上神社(あわやまのうえのじんじゃ)があります。阿波山上神社は、大宝元年(701年)、大杉に粟の穂を持った童子の姿の神が降臨したと伝えられ、降木明神の別名があります。阿波国から移り住んだ阿波忌部の人が、杉や粟をもたらしたのかもしれません。城里町役場には、指定文化財天然記念物のスダジイの巨木があります。地元の自然界の主である梟(フクロウ)「ホロル」が住むとされていますが、「パルテノン神殿」に祀られている女神アテナは、梟(フクロウ)を聖獣とします。
岩船神社や石船神社は、関東地方では茨城県に比較的多くありますが、小美玉市寺崎、小岩戸の石船神社、茨城町生井沢の石船神社、東海村亀下の磐船神社の4社は、城里町の延喜式内・石船神社(写真6)から分霊されているそうです。石船神社の祭神は須佐之男命と推定される天鳥船命(鳥石楠船命)で、神体は花崗岩の巨石「兜石」、神紋は「左三つ巴」でです。石船神社には藤の古木が群生し(町指定文化財:天然記念物)、神木の杉と共生している最大の藤は、目通り周囲が1.3メートルあります(写真7)。神社と渓流の間に船形石があり、雨乞い祈願に用いられたようで、水が溜まっていました(写真8)。『常陸風土記』の時代から茨城県では製鉄が行われ、内陸部で古代製鉄が行われていたらしいので、もしかすると、船形石と藤蔓の籠で砂鉄を選別し、砂鉄を採ったのかもしれません。
那珂市にある常陸二之宮静神社(写真9、10)の主祭神は、豊玉姫命(卑弥呼)と推定される 建葉槌命(倭文神)で、『常陸国風土記』久慈郡の条には「静織(しどり)の里」とあり、倭文部が常陸国に居住していたことも推測されています。門の前には、織姫像が建てられています。静神社の本殿の千木(ちぎ)(写真11)は女神を表す内削(うちそ)ぎです。千木の下には、渦巻文様があります。「花園謡曲番続」「玉の井」の絵にある豊玉姫命の背景には波が描かれていますが(写真12)、豊玉姫は神話の中で、海神の娘として登場するためと思われます。豊玉姫命は、紐(ひも)と手提げの籠(かご)のようなものを持っていますが、紐は、大麻や絹で作られた「倭文織」の糸かもしれません。
茨城県日立市大みか町にある大甕神社は、主神が武葉槌命で、地主神が甕星香々背男(みかぼしかがせお)という神で、武葉槌命が、甕星香々背男と称する星神の霊力を封じたことになっています。甕星香々背男(天津甕星 あまつみかぼし)の、「甕」は「かめ」、「香々」は火之炫毘古神(ひのかかびこのかみ)の「炫」、「星」は「シリウス」と推定され、天津甕星は加具土命と推定されます。大甕神社の本殿(写真13)は磐座の上にあり、磐座の規模は違いますが、石上布都魂神社の本宮に似ています。神紋は、石船神社(城里町)や、丹生都比売神社や、丹後一宮 元伊勢 籠神社と同じ巴紋(左三つ巴)です。
車塚古墳に接して、3世紀中頃の前方後方墳の姫塚古墳(写真14)がありますが、姫塚古墳は、孝元天皇(大国主命)の墓と推定される備前車塚古墳と同じ前方後方墳で、築造年代も卑弥呼の推定没年に近いので、孝元天皇の皇子の少彦男心命(少彦名命と推定)の墓と思われます。備前車塚古墳から出土した11面の三角縁神獣鏡のうち4面の同笵鏡が、関東地方から見つかっていることと関係がありそうです。
大洗磯前神社とオリンポス山を結ぶラインの近くには、新潟県西蒲原郡弥彦村にある彌彦神社(やひこじんじゃ)があります(図5)。彌彦神社は、越後平野西部の弥彦山を神体山として祀る神社で、『万葉集』にも歌われる古社です。祭神の天香山命(大国主命 孝元天皇と推定)は越後国開拓の祖神として信仰されたほか、神武東征にも功績のあった神として武人からも崇敬されたようです。このラインは、姫塚古墳の被葬者と孝元天皇(大国主命)との関係を示していると推定され、姫塚古墳の被葬者が、孝元天皇の皇子の少彦男心命と推定されることと整合します。
和珥氏の墓と推定される雨の宮古墳群と姫塚古墳を結ぶラインの近くには戸隠神社 奥社(長野市)、赤城山、笠間稲荷神社(茨城県笠間市)があります(図6)。これは少彦男心命(少彦名命)と和珥氏との関係を示していると推定されます。
大洗磯前神社と雨の宮古墳群、雨の宮古墳群と大湯環状列石、大湯環状列石と大洗磯前神社を結ぶラインで三角形を描くと、図5のラインは、雨の宮古墳と大湯環状列石を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図7)。
鹿島神宮とチャタル・ヒュユクを結ぶラインの近くに、常陸國總社宮(茨城県石岡市)、常陸風土記の丘(石岡市)があります(図8)。常陸風土記の丘には、4~6世紀の茨城県内最大規模の舟塚山古墳があり、また、7世紀の半ばには、常陸国の国衙(こくが)が置かれ、国分寺・国分尼寺が建立されました。オリンポス山と香取神宮を結ぶラインの近くには筑波山神社(つくば市)があり、これらのラインの交点付近には、江戸までは星宮大権現あるいは星宮大明神と称した楡木神社(栃木県鹿沼市)があります(図8)。
栃木県下都賀郡壬生町には、7世紀前半頃の築造と推定される壬生車塚古墳(にぶくるまつかこふん)があり(図8、9)、下毛野氏一族の墓と解されている「下野型古墳」の特徴を有しています。壬生車塚古墳は、常陸風土記の丘(石岡市)とギョベクリ・テペを結ぶラインの近くにあります(図9)。信太郡(しだぐん)は、白雉4年(653年)に建てられた常陸国の郡で、稲敷市には信太古渡(しだふっと)という地名が残っています。信太古渡は、香取神宮とギョベクリ・テペを結ぶラインの近くにあります(図9)。
土器に塩水を入れ、煮沸して塩の結晶を得る古代土器製塩法は、縄文時代後期に、茨城県霞ヶ浦沿岸に初めて現れ、以後宮城県松島湾、青森県下北半島や津軽半島に拡がったようです1)。『常陸風土記』の信太の郡(しだのこおり)の浮島に関する記事に「居(す)める百姓は塩を火(や)きて業となす。しかして九つの社(やしろ)ありて言行は諱(き)なり」とあります。斎藤 忠氏は、浮島の人々は神聖な呪力をもつ塩を生産する特殊な職域にあり、言葉や行動にも謹み深さがあったのだろうと推定しています2)。古渡から江戸崎の方が『常陸国風土記』に見る「榎浦(えのうら)」であっただろうとされ、常陸国への入口であったようです。信太古渡の周辺には、須賀神社、熊野神社、稲荷神社などがあります(図10)。
茨城県つくば市臼井にある飯名神社(いいなじんじゃ)(写真15、16)は、祭神が宇気母知神(うけもちのかみ 保食神 豊受大神と推定)と市杵嶋姫命で、創建が8世紀以前に遡る古社で『常陸国風土記』の信太郡の条にある「飯名神」に比定する見解があるようです。
筑波山を御神体とする筑波山神社(写真17)は、羽黒山と妙見本宮 千葉神社を結ぶレイライン上にあります。
筑波山神社と飯名神社を結ぶラインは、茨城県つくば市臼井にある六所皇大神宮靈跡(写真18)とアルテミス神殿を結ぶラインとほぼ直角に交差し、交点の近くには清水稲荷神社(筑波山七稲荷)があります(図11)。「六所皇大神宮」(六所神社)は、社伝によれば、筑波地方の総社として創建され、「伊勢神宮」の分社ということで「皇大神宮」と称し、「筑波山神社」の里宮ともされるようです。筑波山がアルテミス神殿とつながっているのは、アルテミスが古くは山野の女神であるためと思われます。
龍ヶ崎市にある女化神社は保食命(豊受大神と推定)を祀り、狛犬が狐で(写真19)、一説によると『常陸国風土記』の「飯名社」(飯名神社の分社)の比定社になっています。社地は茨城県牛久市女化町内の飛地にあり、通称は女化稲荷神社といわれます。田中孝顕氏によると、「茨城」「牛久」「女化」は、いずれもタミル語で「日の出」を表すようです3)。
姫塚古墳とほぼ同緯度にある桜川市大国玉(旧真壁郡大和村大国玉)に、大国主命を祀る大国玉神社(図11、写真20、21、22)があり、境内社には后神社(須勢理比女命)があります。社伝によると養老年間(717 - 724年)の創建とされ、六国史及び延喜式神名帳に記載があります。大国魂神社と女化神社を結ぶラインは、筑波山神社の近くを通ります(図11)。女化神社と石船神社(城里町)を結ぶラインの近くには、鹿島神社(かすみがうら市)、常陸風土記の丘、六所神社(笠間市)があります(図12)。女化神社の本殿の向きは、石船神社(城里町)や大國玉神社(桜川市)と関係があると思われます(図13)。
筑波山の「飯名神」から起こったとされる「稲敷郷」(現稲敷市)の阿波に、倭大物主櫛甕玉大神を主祭神とする大杉神社(写真23)があります。大杉大明神は三輪明神(奈良県三輪の大神神社)で、大杉神社は女化神社とほぼ同緯度にあります(図11)。これは大物主神(加具土命)と豊受大神(豊受姫命)を関係付けていると推定されます。稲敷市阿波一帯は、律令体制以前は菟上国(海上国)の一部で、大杉神社は菟上国造を祀るもっとも重要な神社だったといわれています。
『常陸国風土記』には、信太郡はもと日高見国(ひたかみのくに/ひだかみのくに)だったと記されています。日高見国は、平安時代につくられた『延喜式』に定められた大祓詞(おおはらえのことば)では「大倭日高見国」とされ、『日本書紀』では蝦夷の地を指します。
日高見国は、孝元天皇(大国主命)の治めた倭国(やまとのくに)に属し、皇子の少彦男心命(少彦名命)が東国を治めた拠点で、日高見国の中心は、少彦名命の墓と推定される姫塚古墳とほぼ同緯度にある大国玉神社のある旧大和村だったのではないかと思われます。大国玉神社(桜川市)に少彦名命が祀られていないのは、少彦名命が吉備の邪馬台国(やまとのくに)の先祖を祀った神社だったからかもしれません。田中孝顕氏によると、「やまと」は、タミル語で「日の中心」という意味だそうです3)。「大和」の名称は、地名にはなくなりましたが、JR水戸線大和駅や桜川市立大和中学校や桜川市役所大和庁舎などに残っています。
日本神話においては、少彦名神、御毛沼命、田道間守が「常世の国」に渡ったという記事があり、「常世の国」は常陸国(日高見国)のことと推定されます。田中孝顕氏によると、常世国の信仰と酷似している沖縄県や鹿児島県奄美群島の各地に伝わる理想郷の伝承「ニライ・カナイ」は、タミル語で「nilai・karai」で「永久不変・場所」、すなわち「常世の国」を意味するようです3)。普天満宮(沖縄県宜野湾市)と鹿島神宮 奥宮を結ぶラインは、玉前神社(千葉県長生郡一宮町)と菊田神社(習志野市)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図14)。鹿島神宮 奥宮と玉前神社を結ぶラインの近くには、龍宮神社(長生郡白子町)があり、菊田神社と鹿島神宮 奥宮を結ぶラインの近くには、宇迦神社(香取市)があります(図14)。
「橘」と「茨城県」で検索すると橘郷造神社(茨城県行方市)が見つかりました。この神社は、平安前期の史書である『日本三代実録』の記録にも登場する古い歴史があり、周辺地域は橘郷だったようです。橘郷造神社は、鹿島神宮とオリンポス山を結ぶラインの近くにあり、ラインの近くには、延喜式内 大前神社(栃木県真岡市)、日光東照宮があります(図15)。大前神社は、だいこく様とえびす様を祀っています。
筑波の西は毛野川(鬼怒川)と連なり下毛野とも近接していますが、毛野はある時期には、常陸国の新治・白壁・筑波の一帯を含む地域であった可能性が指摘されています。『常陸国風土記』の筑波郡の条には「筑波の県は、古、紀の国と謂いき」(筑波は昔は「紀の国」といった)との記載があるようです。『古事記』の鵜葺草葺不合命の段にある「御毛沼(みけぬの)命は、波の穂を跳(ふ)みて常世(とこよのくに)國に渡りまし」というのは、御毛沼命が、関東地方に移ったことを表していると推定されます。 古代に関東地方にあった香取海に注ぐ毛野川(鬼怒川)流域には、大和から派遣された、第10代崇神天皇の皇子豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)を祖とし、出雲神を祀る豪族が毛野国(けののくに)(現在の群馬県と栃木県)を治めていましたが、この一族は祭祀や習俗などから、三輪氏や吉備氏と同族と見られています。
群馬県前橋市にある赤城神社(図16)は赤城山を神体山として祀る神社ですが、上毛野氏は、氏神として豊城入彦命を赤城神社に祀ったといわれ、祖先と発生地を「紀(き = 紀伊)」地方に求めています。下毛野氏は宇都宮市にある豊城入彦命を祀る二荒山神社を奉斎してきたとされます。二荒山神社も鹿島神宮とオリンポス山を結ぶラインの近くにあります(図16)。
『日本書紀』には紀伊の荒河戸畔の娘と崇神天皇の間に生まれたのが豊城入彦命と記し、紀伊との関係の深さが指摘されています。また、丹生大明神告門(のりと)によると、丹生都比売神一族は、崇神天皇の朝に大和より紀伊国伊都郡に移り住み、丹生直族は、紀伊国造と同等の丹生直(あたい)、丹生祝(ほふり)、丹生神奴の姓(かばね)を与えられて地位や身分を明らかにしていたようです4)。丹生氏の系図に、神奴君(垂仁天皇と推定)の兄で、「紀直(紀君)十代国造」と記された「豊布流」が、豊城入彦命と推定されます。子孫は、日前国懸両神宮神職家となったようです。第10代天皇である崇神天皇(豊耳命)の皇子が第10代の紀国造(豊布流)なので、丹生氏の系図にある初代紀国造(天道根命)は、神武天皇の皇子の神八井耳命かもしれません。
群馬県高崎市元島名町に4世紀後半に造られたと推定される前方後方墳である元島名将軍塚古墳(もとしまなしょうぐんづかこふん)があります。前方部にある島名神社(写真24)の祭神には、彦狭島王(ひこさしまおう)の名前がありますが、『先代旧事本紀』「国造本紀」では、崇神天皇の御世に豊城入彦命の孫の彦狭島命が初めて東方十二国を平定した時に上毛野国造に封ぜられたと記載されています。崇神天皇の陵墓は、3世紀末に築造されたと推定される浦間茶臼山古墳とすると、1世代を25年として3世代で75年となり、彦狭島命の墓は4世紀後半で計算が合います。
元島名将軍塚古墳は、大洗磯前神社と穂高神社を結ぶライン、諏訪大社上社本宮といわき市の大国主命、須勢理姫命、少彦名命を祀る國魂神社を結ぶラインの近くにあります(図17)。元島名将軍塚古墳は、須佐之男命(孝霊天皇)や大国主命(孝元天皇)と関係があると推定され、被葬者は、崇神天皇の後裔の彦狭島王と推定されます。
文献
1)小泉武夫 2016 「醤油・味噌・酢はすごい」 中公新書
2)斎藤 忠 1992 「常陸国風土記 神の島・浮島」 財団法人常陽藝文センター
3)田中孝顕 2023 「よみがえる大野 日本語=タミル語 接触言語説」 幻冬舎
4)丹生廣良 1977 「丹生神社と丹生氏の研究」 きのくに古代史研究会