【読書記録】上野先生、フェミニズムについてゼロから教えてください!
めちゃくちゃ長い(6000字オーバー)のでお時間ある時に読んでいただけたら嬉しいです
1. 何でこの本を読もうと思ったのか
大学の時の専攻は、「社会学」の部類に入るものだった。
主に戦後日本における社会問題を中心に学ぶ、というものだったけど、その勉強や研究の一環で、女性の扱いや、他の人種の事について学ぶ機会が多かった。学べば学ぶほど気分が重くなり、一方で、この時代の教訓は果たして現代に活きているのか、と思う事が多かった。
学んだ、というよりも、かじったレベルだったけど、そこであらゆる差別問題について興味を持ち始めた、と言うのが、まず私の根底にある。
ここ最近、日本社会で特に盛り上がっているのは、女性差別問題だろう。
あらゆる人が自由に発信できるSNS文化の隆盛により、今まで見えづらかった、自分とは別の社会で生きている人や、近くて隣に座っているあの人までの価値観やバックグラウンド、趣味嗜好が、良くも、悪くも簡単に露呈するようになった。
中でも色んな、特に女性が、社会に蔓延る女性蔑視の存在を吐露し始めた。時には怒りながら。時には泣きながら。彼女・彼らの一部は「フェミニスト」と言われる様になった。自称するようになった人もいる。次第に、「ソーシャルアクティビスト」と呼ぶ・呼ばれる人が出てきた。
今までその社会を知らなかった人、知ろうとしなかった人にとっては、「え?本当にそんな事あるの?」「妄想じゃない?」「考えすぎでは」と思う事もたくさんあったし言われることもあったけど、この数年間で、「そういう事実もある」と素直に認められる・認めてくれる人が増えてきたと思っている。
でも意見が盛り上がっているのを見ていたら、ふと思った。
「フェミニスト同士、差別撤廃を訴えている人同士で、目標点は一緒なはずなのに戦っていないか?」
「暴力的、差別的用語を言ってでも訴えないと、社会は変えられないのか?」
「それは嫌悪している人や社会と同じことをしている、というダブスタにならないか?」
なんだか毎回自分の読解力を試されている様で「疲れる」と思ったのが正直なシンプルな気持ちで、
一方で、SNSという表現が限られたプラットフォーム上で発信するのは、あまりにも前後の文脈が貧弱すぎるし、バックグラウンドがわからなすぎる、とも思った。何の目的があるのか、賛同しているふりする人がたくさんいる現状にも辟易した。
そんな事をずっとモヤモヤしながら考えていて、時には「これどう思う?」と他者と会話しながら、色んな本とか記事とか意見とか読んだり観たりしながら、自分なりに良い落としどころ、というか、自分の立ち位置を見つけようと思っていた。
でも知れば知るほど、前提としての、むしろ根本的な部分での「フェミニズムって何?」ってなった。
混乱。定義が全くわからない。というか、言っている事が皆正しく思えるのに、一致していない。人の数だけ無数の円があって、ある部分では被っているけど、ある部分では全く別物、みたいな感じ。
こういう事に白黒つけるとか、はっきりと線引きするとかしない方が良い気もしたのだけど、ある程度のラインを引かないと自分の中でもブレブレすぎて、これは、やはり自分の中で、軸を見つけないと、作らないとダメだ。と思った。
そんな時、ふと、2019年に話題になった東大祝辞が再度TL上に流れてきた。
当時、めちゃくちゃ感動した事を思い出したし、日本の最高学府でこれを祝辞で言える人がいるのか、と衝撃を覚えた。
それと同時に、特に大学時代、周りとのあまりの差(学歴以外の部分)に、絶望して、苦しくて悔しかったけど、「私に与えられた手札がこれしかないのだから仕方ない」と思いながら日々過ごしていたのを思い出した。その苦しさは社会人になってからも続いたし、ちょっと生きやすくなったのは最近の事だ。(まあ、そのあとすぐに別の苦しさに直面したのだけど)
「そういえば、あの祝辞を言っていた人は、ジェンダー学をやっている人だったはず」と思って、今何をしているのかを調べた。
調べたら、著書がたくさん出ていた。その内の一冊、入門編と紹介されていたこの本を手に取ってみたのが、この本を開いたきっかけだった。
2. 結婚なめんなよ
前置きが長くなりましたが、ここからが本題。
この本は、団塊世代の上野先生と、その下の世代の田房先生との対談形式で進んでいく。上野先生がフェミニズムの活動を歴史とともに田房さんに教えていく、という形式をとっていて、軽快に話が進んでいくからとても読みやすい。そして話が進むにつれ、「現代の女性たちはSNSに不満を吐露して、ちょっと発散させて、面と向かって男と戦っていない」という話に繋がっていく。
活動の歴史に関しては、大学の時に勉強した事、上の世代(私からしたら祖父母ぐらい)にあたる人から聞いた話、ドラマやドキュメンタリー番組で「見たことあるぞ」という話から、「え、そんな事されてたの?言われていたの?」という話に、「だから祖母はああいう生き方しているのか」と思うところまで、すごく興味深かった。
と同時に、大学の時に学んで感じていた違和感に、合点がついた。
前の世代のお姉さま方が頑張った証は、私たちの世代まで繋がっていないのではないか。教訓は活かされていない気がする。
というか、タブー視されているところもあったりして、敢えて蓋している様な気すらする。
そして、学校で習う歴史は男側の歴史(本書の言葉を借りると『A面』の歴史)で、私たちが教訓を繋いで、活かして、改善していかなくてはならないのは、女側の歴史(『B面』の歴史)なんだと思った。
※A面 = 政治経済、時間、雇用などの事(融通がきくもの)
B面 = 生命、育児、介護、病気、障害などの事(かけがえのないもの)
本書内では、男性はずっとA面に入れて、何かの拍子でB面を覗く事はある。
一方で、女性も当初はA面にいたのだが、結婚や出産を機にB面に行かなくてはならなくなり、そのあとずっと行ったりきたりしている。
そういえば、B面に関する相談を上のお姉さま方や母や義母に相談すると、大抵、「私たちの頃はこうだったけど、今は違うでしょ。」という話で終わらせられている。
この「違うのね」というワードがいわゆる「分断」されている気がしていたし、こちらも「いや、その考えは古いよ。もっと社会は進んでいるよ。」って思っては、価値観を、教訓を分断していた気がする。
相談はするけど、結局、社会情勢も価値観も使っているツールも違うから、その教訓を現代に反映して良いのか判断できず、聞いたは良いものの、何も活かせていない、という感じ。向こうも、「参考程度にしかならないし、今の時代で活かすのは無理だよ」と思っている様だった。
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お姉さま方の世代では、「一人一殺」という言葉が流行っていたらしい。
元々はテロリストの言葉だけど、当時の女性は「社会を変える革命には失敗したけど、自分の全生涯をかけて、せめて男一人ぐらいは変えようよ」という意味で使っていたらしい。
この感覚、現代の女性たちの果たしてどれくらいの人達が持っているのだろうか・・・と思った。
SNSには毎日の様に、彼氏や夫、職場の同僚、男友達、見知らぬおっさん、等々、あらゆる男性から不快な思いをさせられた女性たちの怒りや嘆きや苦しみが吐露されている。
何で戦わないのか。特に夫に対してなんて、生きるか死ぬかの時になっても、SNSに愚痴を言って吐き出して終わりで、何で実際に相手に対して改善要求を出さないんだろう、って思う事もあった。
「それはおかしい」と、何でせめて自分が選んだ男相手にすら言えないんだ。それは、戦わず嫌な事から目を背ける、我慢する、自分の気持ちを誤魔化す事に癖づいているのではないか、と思うこともあった。
一方で、動けない、体力も気力も底ついた、という人もよく見る。
皆が皆、戦えるほど強いわけでもなかったり、もう既に、心が折れてしまった人、言ったけど伝わらない、と思っているんだろうな、と思う事もあった。
「どうすれば良いのか」「自分が同じ立場になったらどうするのか」を考える様になった。
そしてこの本を読んで、「そうなってしまったのは何でだ」と考えるようになった。彼女達が戦わない責任、だけで片付けて良いのだろうか。原因を探って、再発しないように、同じ様に陥ってしまう人が増えない様に考えるべきだな、と思った。
加えてもしかしてその責任は、自分の母親が、周りのお姉さま方が、有効的な戦い方を教えてくれなかったからでは?とも思った。
学校では教えてくれない、この女性たちの戦ってきた歴史を知って、どんな言葉を信念を胸に生き抜いてきたのかを知って、現代にどうやって活かせば良いのかを考えて、思考の癖を直す事ができていたら、あるいは、気力が削がれる前に立て直す方法を知っていたら、もしかしたらもう少し戦えたのかもしれない、と。
どこに武器があって、どこに避難場所があって、どうやって使えばよくて、どんな言葉を使えばよくて、、それを事前に知っていたら、もっと早い段階で、気力も体力も底つくまえに戦うなり、逃げ出すなりできたのでは、と。
その一方で、もう少しA面側にB面側の戦いの様子を反映させる事ができたら、何か変わっていたのかもしれない、とも思った。それはどうすれば良いか。継続的に、多くの人が、A面側に声を届け続ける事かもしれない、と思った。
じゃあ、次の世代にこれら諸々をひっくるめたバトンを渡すにはどうすれば良いのか。お二人が話を進めるのを読みながら、考えを巡らせた。
「個人的は政治的なこと、政治は個人間の関係のうちに表れる」
なるほど、と思った。
個人的な問題なはずなのにSNSに吐露すれば共感者が多く、「あるある」と認識されるものって、実は社会的問題、歴史的問題があるのでは?という考え。
今まで直面していたあらゆる問題は、もしかしたら社会が作った概念なり、価値観なり、そういう外的要因が作用して起きた事なのではないか。
でも、「なるほど」と思う一方で、「そんなのどうすれば・・・」とも思った。途方もない。社会の価値観を変えるなんて、一人の力じゃよほどじゃないとできない。
そして私個人的には、社会活動や、デモを起こす、などは、今、「自分の家族をつくる時期」に突入しようとしていて、自分の地盤固めで必死になっている身にとっては、めちゃくちゃハードルが高い。そういうのは、地盤固めが既に終わっている人か、そもそも次世代を育てる、という役割を最前で今は行っていない人にお願いしたい、と思っている。(やりたくない、のではなくて、余裕が無い、手が回らない、という感じ。だからこそ、社会に対して大きく声をあげてやっている人たちは、本当にすごいな、って思う。)
それならばせめて、今の私に何ができる?と考えた。
それが、まさに「一人一殺」。最低でも目の前の夫に、余裕がある範囲で家族の中の男である弟に、これから女社会のど真ん中にどんどん進んでいくであろう妹に、「B面の世界を変えたい」という意思を、「それはおかしい」と言っていくことを、諦めない事ではないかと思った。そしてそれは時に、A面を見ないようにして生きている同世代の女友達にも言う必要があるかもしれない。これから先は、そういう覚悟を持って生きていくべきなのでは、と思った。
加えて、私は今妊婦だ。このまま順調に進めば、新しい人間を産み落とす事になる。その子に対して、しっかりと歴史を、社会を伝えていくのが必要なのではないか、と思った。
「結婚する」「家族をつくる」という事に対して、「好きだからずっと一緒にいたいから」とか「子供作った方が良いと思ったから」とか、そんな漠然とした思いで取り組んできたわけではないけども、
「目の前の人間(夫)ぐらい、女性差別をしないまともな人間にする」みたいな、腹を括る、に近い覚悟までしてこなかったかもしれない、と思った。
一緒に過ごしていて私が不快だと感じたら伝えるけど、その「不快だ」と思う感覚が社会や文化的価値観とリンクして考えていたか、と思うと、そうじゃない気がする。
身が引き締まる思いがした。
他人と暮らす、一生を共にする、って、やっぱりそんな簡単な事じゃない。
3. 自分の中の「ミソジニー」と闘い続ける
読んでみて、身が引き締まる思いがしたし、自分の中で少し霧が晴れた気がした。誰かに伝えるには、まだ経験値も思考力もボキャブラリーも足りない気がするのだけど、それでも私ができる範囲で、私が支持する・信じている方法で、せめて目の前の人ぐらいは変える事ができるかもしれない、と思った。
そしてその「目の前の人」が、また違う、「目の前の人」を変えていって、、、そうやって連鎖的に変えていくのでも良いのではないか、と思った。
一方で私は、私の中にある「女性とは」「男性とは」という価値観や判断基準を、常に疑い続けなくてはいけない。
思考に染み込んでいる癖は、そう簡単にとれない。もはやシミの様なものだ。洗い流すのは、簡単じゃない。結構難易度が高いし、一生の課題だと思う。
「フェミニズムの中にはミソジニー(女嫌い、女性蔑視のこと。男にとっては、自己嫌悪のこと)がある」
「自分の中にあるミソジニーと闘いつづけてきた人をフェミニストと呼ぶ」
本書の中で上野さんが言っていた言葉。
「ミソジニーから解放されていたら、フェミニストである必要がない」と言っているのだけど、本当、まさにその通りだな、って思った。
戦うものが無くなって、初めてフェミニストはいなくなるのかもしれない。
固定観念的な「女性」という役割を、本気で、心の底から好んでいる人だって中にはいると思う。そういう人達が、固定観念をぶっ壊したいって人達の足を引っ張っている、とは思わないのだけど、でも敵視されている現状があるのは知っているから、何となく自分の中でどうすれば良いのか結論がつかなかった。
だけど、「ミソジニー」という感情を持ったままでも良いのか、と思ったら、折り合いがついた気がする。
望んで昔ながらの「女性」という役割をまっとうしている人を敵視しなくなるのは、その役割を都合の良い様に扱う人間がいなくなって、初めて可能になるのかもしれない。それまでは、「敵視する」という価値観を保有したままでも、仕方ないのかもしれない、と。
それはまだまだ先だろうし、そう簡単にいかないだろうとは思うし、夢物語な気もするけど、「女性」「男性」に限らず、「誰かが誰かを搾取する」という状況が無くなれば、きっと叶わない事では無いのかもしれない。
フェミニズムは女が女であることを愛し、受け入れる思想
フェミニズムは、弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想
女が女であることを愛し、受け入れる思想
決して、一律して「男」になるための思想では無い。
1人1人、自分が自分で居続ける事を願っていて、そのために声をあげていて、それが例え人によって「こうありたい」っていう主張が違ったとしても、主張の仕方が違ったとしても、同じ「フェミニスト」であるはずなのに対立する形になっていたとしても、
「自分らしく」生きるための思想なんだから、それら全部をひっくるめてOKだし、許容されるべきなんだな、と思った。
「人の数だけ無数の円があって、ある部分では被っているけど、ある部分では全く別物」って思っていたけど、それはそれでアリなんだな、と思った。
私は私の生きたい生き方があるから、それを得られるように突き進む。
それを邪魔する人やモノが出てきたら、戦うし、もしかしたら遠回りするかもしれないけど、それで良いんだと思う。
一方で戦うためにも、伝え方を、戦い方を知らないと何もできない。
「言葉を知らない事は表現できない。」
「感情は言語化されないと経験にならない。」
私は私の気持ちを的確に表現できる様になるために、インプットをし続けようと思う。