“魂の殺人”への復讐ー「プロミシング・ヤング・ウーマン」
公開当時からずっと観たいと思っていて見逃し、wowwowで録画していたけれど観るのに覚悟が必要な気がしてずっとそのままにしていた「プロミシング・ヤング・ウーマン」を観た。最後、「キャシー」と主人公の名前がレタリングされた割れたハートの片割れのネックレスが映し出されたところで、突然呻きながら号泣してしまった。これまでに経験したことがない涙の種類だ。
wowwowの映画座のコメンテーターを務める小山薫堂と信濃太郎は男性で、題材が題材なだけに、すごく気を遣いながらこの映画についてコメントしているように見受けられたけれど、「結婚式で○○なんて最悪ですよね」という小山薫堂の一言に「最悪なのはどっちだよ、こっちは人生破壊されてるんだよ、お前ら男になんか一生わからない」と思ってしまうほど感情移入してしまったのは身につまされることがありすぎたからだろう。ついでに「男」とか「女」とか、自分が属する性別を代表してしまうように主語がどうしてもでかくなってしまう。憎しみをぶつけてしまう。
性犯罪の“魂の殺人”ともいうべきおぞましさと、その被害者の想像を絶する苦しみは「御直披」という角川から出ている書籍に詳しい。学生時代に読んで以来忘れられない本の一つなのだが、残念ながら現在は絶版で古本や図書館でしか手に取れない(大げさでもなんでもなく、全国民が読んだら社会が変わるんじゃないかと思ったので、未読の方にはぜひ読んでほしい)。その時の衝撃を反芻しながら、このなんとも後味が悪いけれども一定の腑に落ちた感のある結末に想いを馳せた。これはこれでいいしこうにしかならなかったけど、本当はキャシーにもニーナにもお互いに医者という夢を叶えて日々笑ったり泣いたりしながら当たり前のような毎日を送る未来があった。
勢いでつらつらとここまで書いてしまったけれど、この映画は医学部を中退してコーヒーショップで働きながら、夜毎酔ったふりをしてお持ち帰り男を引っかけてはそういう男たちにトラウマのごとき仕返し(と言っても
かわいいもんな気が)を与えるような行為を繰り返しているカサンドラ・通称キャシーが主人公。彼女は幼少期からの親友のニーナを、学生時代のレイプ事件から亡くしており(おそらく自殺したのだと思われる)その傷がずっと癒えないままでいる。
ライアンは私たち自身みたいな存在で、我が身を振り返ると同時に、でもこういう人を憎んだり許せない気持ちも存分に分かる。高校時代に「ちょっと合わないから距離を置きたい」と言って仲良しグループから私を除外するきっかけを作った同級生から、社会人になってfacebookの友達申請が届いた時の気持ちを思い出してしまった。あなたは覚えていないかもしれない、悪気もなかったのだし若かったのだと思う、でも言われた方やられた方は、ずっと覚えてる。(とりあえず友達じゃないので、未承認のままスルーした)そして私自身、誰かにとってのライアンみたいな傍観者ではあったはずだ。
正しさとは何かということも同時に問われる中で、キャシーがとった選択は、彼女はどんなに怒っても誰かをニーナと同じ目に合わせることを実際は選ばなかったこと。この一点が深く傷ついたことのある、人を傷つけることの重さを身をもって知りそしてずっと悔いている人ならではの行動だと感じた。
ちっともスカッとしないしざまあみろとかカッコいいとかそういう気分にも浸れない。私にはずっと、二人の少女の明るいあったはずの未来が見えていて、一緒に悔しく悲しくなった。この映画を「面白かった」だけで済ます人には友達になれなそうだけれども、そういう人にこそ観てもらいたいとも思う。