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正体不明のピカレスク・ヒーロー、不老不死を求めて秘境へ ガイ・ブースビー『魔法医師ニコラ』
数々のピカレスク・ヒーローの先駆であり、秘境冒険小説でもある古典的名作『魔法医師ニコラ』。日本では半ば幻になっていた作品を、あの菊地秀行が訳したものです。
時は19世紀末、一旗揚げるために上海に渡ったものの、何事もうまくいかずに路頭に迷う寸前になった英国人青年ウィルフレッド・ブルース。彼は、ニコラ博士なる人物が仕事を紹介するために自分を探していると、知人から聞かされます。
上海のみならず世界中で恐れられているという、正体不明の人物・ニコラ。彼のもとを訪れたブルースは、催眠術とも魔術ともわからぬ彼の奇怪な力を目の当たりにすることになります。
そこで持ちかけられたのは、チベットの山奥に向かう、命の保証はないという旅の道連れ――ブルースの特技である中国語と変装の腕を活かし、二千年以上の歴史を持つ秘密結社に潜入、結社が秘蔵する不老不死の秘術を手に入れようというのです。
一万ポンドという報酬、そして前代未聞の冒険に惹かれ、ニコラの申し出を受けたブルース。中国人僧侶に化けた二人は、上海から天津を経て、北京の大ラマ寺院で、ついに目的地への道を知ることになります。
そして幾多の冒険の末に、ついにチベット奥地の大寺院に辿り着いた二人。そこで彼らが目の当たりにしたものとは……
19世紀後半から20世紀前半にかけてさまざまな形で発表された、いわゆる秘境冒険小説。本作はその流れに乗った作品の一つですが、しかし他の作品とは大きく異なる点がいくつかあります。
その最たるものは、主人公たるニコラの存在です。きちんとした身なりで長身痩躯、眼も髪も真っ黒で、肌は青白い(ヒキガエルのように、と評される)――そして何よりも、貫くような鋭い視線の持ち主。自分の屋敷にいる時は、愛猫の黒猫・アポリオンと共に過ごしているという、ビジュアルだけでも実にキャラの立った人物です。
単行本の表紙に描かれた彼の姿はこちら
しかし彼の特徴は、その外見だけにあるわけではありません。彼は一言でいえば、目的のためにはまったく手段を選ばない人物――己の目的の前では、相手の意思は考慮せず、心身への暴力も厭わない。その異様なカリスマと財力で従えた忠実な部下たちを自在に操り、必ず目的は達成してみせる人物なのです。
そんな彼の特異なキャラクターは、チベットの奥地の鍵となる木の棒を手に入れるため、それを偶然に手にしたオーストラリアの州知事につきまとい、州知事の娘を含めた周囲の人物たちを大いに苦しめたという、物語冒頭で語られるエピソードでも明らかです。
(ちなみにこのエピソード、実はニコラ博士シリーズの第一弾である「A Bid for Fortune; Or, Doctor Nikola's Vendetta」で描かれています。実は本作は、解説等では触れられていませんが、実はシリーズ第二弾に当たります)
その点からすれば、ニコラは秘境冒険小説の主人公というよりも、むしろ1896年に発表された本作の十数年後に登場した、ジゴマやファントマ、フー・マンチューらピカレスクヒーローの先駆というべき存在といえるでしょう。
また、もう一つユニークなのは、秘境冒険小説の多くに見られる西洋文明の優位が、本作においては見られない――むしろ本作はチベット奥地の秘密結社が連綿として伝える秘伝を求めての冒険であり、東洋文明の優位を描く物語となっている点です。さらにいえば、一切の権力から自由な存在であるニコラが主人公を務めるだけに、本作にはこの当時の冒険小説にはつきものだった、帝国主義的な色彩が薄いのもまた、注目すべき点といえるでしょう。
もちろん、本作はあくまでも大衆エンターテイメントであり、いかなる独自性があったとしても、面白くなければ意味がありません。その点、やはり発表当時にベストセラーとなった作品は違います。次々と襲いかかる予測不能な危機の連続と、それを時に捻じ伏せ、時に巧みに切り抜けるニコラの天才的頭脳の冴えは、今読んでみても十分面白く感じられます。
もっとも本作の場合、邦訳が菊地秀行の手になることも大きいかもしれません。「らしい」文体が見られるわけではありませんが、しかし良い意味で翻訳書らしさのない文章は、やはりエンターテイメントの空気を知り尽くした作者ならではのものと感じます。
そして菊地秀行といえばあとがきも見逃せない魅力ですが、本作にでもニコラの特異なキャラクターと物語を包む空気に独自の視点で切り込んでおり、さすがは――と唸らされます。(「シノワズリ(黄禍主義)」という表現だけはどうかと思いますが……)
すでに絶版ではありますが――実は明治時代に翻案された版の方が、電子書籍化されているので容易に手に入るという――単行本版も文庫版(表紙は小島文美!)も入手は難しくなく、興味を持たれた方はご一読いただければと思います。
ちなみに、本作で一点だけ非常に残念だったのは、ニコラの愛猫のアポリオンの出番が非常に少ないことで――ぜひ冒険行を共にしてほしかった、というのは猫好きの贅言です。