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ポエム帳

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酔っぱらったときに書きます。
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#小説

恋こがれて

 窓の向こうの、雲ひとつない水色の景色を見ていると、いてもたってもいられなかった。おろしたてのシャツと、一年ぶりに履く黒いスニーカー。外へ出ると、街はすっかり夏だった。
 少し歩けば汗がにじむような、ひりつく太陽が懐かしくて嬉しくなる。白く照りつけられた、コントラストの強い真昼の風景。道端のフェンスに絡まった植物の葉陰で、一匹の蜂が羽を休めている。

 夏という舞台の上では、普段歩いている近所の道

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公園通り

二度と戻れない夜が終わって、二人は朝焼けのレストラン。テーブルの新聞に目を落とすと、今日も世情は暗い。ウェイトレスが去ったあとには、美しい沈黙だけが残る。フォークの先でつついた目玉焼きがやぶれ、涙のように黄身がこぼれる。僕もこんな風に泣いてやろうか迷ったけれど、泣かなかった。どうしたって君は振り返らないから、せめて思い出を飾ることに決めたのだ。

初雪が舞い始めた。国道を走る車の流れは途切れること

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10号線のライムライト

午前二時、彼は今夜もあのバーから出てきた。薄手のコートを月風にはためかせて、細く長い影を伸ばす。私は彼のあとをこっそりと追いながら、ひたすら国道の乾いた風を浴びた。ときどきトラックが過ぎるたび、少し煙たい。
彼の名前はわかっている。住所も、職業も、生い立ちも、とうに調査済みである。それから、今夜飲んだカクテルの名前さえ。
彼の家は坂道の途中にある。そばに小さな神社がある。耳の遠い老婆の営むクリーニ

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まぶしい夏

朝の快速電車はゆっくりと時が流れる。夜の名残りは陽射しの中に溶けてしまい、私は窓の外を見る。誰もが幸せそうな五月の街は白い息を吐きながら、盗まれた絵画のように過ぎ去ってゆく。
空は青くて、風はとまっていた。追いかけてくる太陽は探偵のようなまなざしで、レンガ通りに28℃のニスを引く。八百屋のプールに真っ赤なトマトが浮かんでは沈む。私は嬉しくなって走り出す。ティファニーの鞄が路地を切り裂き、その隙間か

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白いファンデーションの上で

 東京に雪がつもったその夜に、私はいつもより早く仕事を切り上げて、雪化粧に色気づいた路面をぺたぺたと歩いて帰った。コンビニから漏れる灯りや車のヘッドライトを受けて、青春群像みたいな光のつぶが私の傘、頰、コートの裾をころがる。すれ違う貴婦人は眉を顰めて足元に視線を落としながら、一歩一歩を大事そうに踏みしめている。
 駅に着くと構内は水びたしで、梅雨どきの渡り廊下みたいに居心地が悪かった。どうせ濡れる

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熱視線

こんなに暑い日には、汗をかきながら外を歩くのがいちばんだ。街路樹にとぎれとぎれになったボーダーの影がときどき幽かなやすらぎをもたらすけれど、これからはじまる一日の最高気温にそんなことは関係ない。私はいつでもプールの中を歩き進んでいるみたいに、汗でシャツも透明だ。だけど古びた電器屋の、色あせたテレビの箱には、灼熱の日がよく似合う。陽炎が揺らす時代の名残りが、私にとって真夜中のベッドのように心地よい、

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お知らせ

お知らせ

 六月になりました。陽射しに汗ばむ毎日です。けれども朝夕は風がつめたく、半袖で出歩いてしまったことをいつも後悔しています。
 私は夏のために生まれてまいりました。だから夏がくるたびに離れ離れになった恋人に奇跡的に再会したような気分になるのです。それは情熱的なことにはちがいないのですが、同時にそれが永遠ではないことに、いつも心痛めるのです。
 終わってしまうくらいなら、始めから夏なんてこなければいい

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私は春を抱きしめていたい

 線路沿いをひとり歩く帰り道。左手のフェンス越しに電車が私とすれ違ったり追い越したりする。右手では鈍い灯りの古書店の、店先のワゴンの雑誌がめくれる。生ぬるい風だ。やっと、春がきた。
 ホームには若い女性。疲れた顔をしている。ちらりと目があったがロマンスのかけらもない。鞄を抱きかかえるようにしてホームの先に立ち、電車のくるのを待ち侘びる彼女の後ろで、私は誰も腰掛けようとしないつめたいベンチに腰掛ける

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小さな窓のある部屋

 白衣の色は水色だった。水色なのに白衣と呼ぶのはいささか矛盾を感じるけれど、矛盾のない物事の方が少ないこの世の中では、たとえ白衣と喪服とを言い違えたって、なんら差し障りのないことだろう。あるいは私にとって、それは喪服と呼ぶのが最適だったかもしれない。その色を、いつもは大好きな空の色にたとえるのに、今日はまっ先に青ざめた死人の顔色が浮かんだ。その袖口から覗いた細い手首の色が、またぞっとするほど白かっ

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