まぶしい夏
朝の快速電車はゆっくりと時が流れる。夜の名残りは陽射しの中に溶けてしまい、私は窓の外を見る。誰もが幸せそうな五月の街は白い息を吐きながら、盗まれた絵画のように過ぎ去ってゆく。
空は青くて、風はとまっていた。追いかけてくる太陽は探偵のようなまなざしで、レンガ通りに28℃のニスを引く。八百屋のプールに真っ赤なトマトが浮かんでは沈む。私は嬉しくなって走り出す。ティファニーの鞄が路地を切り裂き、その隙間からメリメリと夏が始まった。
扉の向こうの部屋は暗く、空気清浄機のファンだけが重い飛行機の羽音と混ざり合って淋しさを紛らわせている。ただいま、とつぶやいた声が壁に三度ぶつかって跳ね返る。デスクに置いてある飲みかけのカクテルを口にしながら、私はカーテンを開けた。窓の向こうの公園から、あおみどりのスポットライトが差し込んでくる。
いつのまにか背後にすり寄る痩せた猫を抱き上げて、私はベッドに寝転んだ。天井から吊り下がる白熱電球のフィラメントが沈黙している。猫は私に頬ずりしながら、ふるさとの匂いを嗅ぎ分ける。五線紙のような髭で、蠱惑なメロディーを書き留めだす。
暑さに煙る部屋で私は白いTシャツを脱いだ。放り投げたらちょうど扇風機にひっかかった。私は猫の小さな口に淡くキスをしてから、枕元のラジオをひねった。眼を閉じると青春ともネオンサインともとれるまぶしい光の夢を見た。好きだよと言えた未来と言えなかった未来とが鋭敏に交錯して、後悔と憧れをないまぜにしたつめたい煮汁の中に私は浮かんでいた。右手を猫の背中に置いて、五本の指はアコーディオンを弾くように絶えず動きつづけている。ブルーな音色が聞こえる代わりに唇から甘い吐息が流れる。
やがて水を失った金魚のように儚い痙攣を起こしながら私は目醒めた。猫はもう私に飽きてどこかへ旅に出かけてしまった。窓の外は夕暮れが近いらしかった。ラジオは砂嵐だった。
夏だ。夏がきた。だから何もかも許される。私は扇風機にかかったTシャツを掴み、もう一度袖を通した。涙の痕のようにみずいろの口紅がにじんでいる。
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