10号線のライムライト

午前二時、彼は今夜もあのバーから出てきた。薄手のコートを月風にはためかせて、細く長い影を伸ばす。私は彼のあとをこっそりと追いながら、ひたすら国道の乾いた風を浴びた。ときどきトラックが過ぎるたび、少し煙たい。
彼の名前はわかっている。住所も、職業も、生い立ちも、とうに調査済みである。それから、今夜飲んだカクテルの名前さえ。
彼の家は坂道の途中にある。そばに小さな神社がある。耳の遠い老婆の営むクリーニング屋もある。彼が幼い日に通った小学校もある。けれども彼には恋人がいない。正確には、いなくなってしまった。彼は同じマンションの隣室に住む、ひとつ年上の女性を愛していたのだ。名前も把握しているが、今では無関係となったその女性のために、記述は差し控える。
彼の恋は長かった。六年と半月だった。それでも幕切れはあっけなかった。大好きなテレビ番組の司会者が、「えー、今日はみなさんに残念なお知らせがあるんですけども」と番組終盤になんの前触れもなく切り出したときのような、胸のしくしくが彼を襲った。彼より一年先に大学を卒業した恋人は、遠い山の向こうの街へ就職してしまった。そこでは風がさわぐらしい。そこでは緑が絶えないらしい。そこでは毎朝、とれたての牛乳が飲めるらしい。彼はいつわりの故郷に敗けたのだ。
恋人にふられた彼は、しかし恋人を不幸にも事故で失ったと思い込むことにした。仮想の仏壇を仕立て上げ、毎朝彼女の好きだった牛乳をそなえた。隣にはもちろんウエハースを。
彼は恋人より一年おくれで仕事に就いたが、不幸にもその職場の高いビルの窓からは、地平線が見えなかった。風はやみ、代わりに喧騒と電車の発着ばかりが知らされた。オフィスには観葉植物のひとつもなく、緑を求めるならば花屋の花を愛でるしかなかった。
彼は毎晩、かつて愛した女の夢を見た。どんなに酒を飲んでもその夢からは逃れられなかったけれど、それでも彼は毎晩のように酒を飲んだ。いつものバーの店主からはすでに名前も顔も憶えられた。座り心地の悪い椅子では幾度かのロマンスが燃えかかったが、いつでもそれは心を濡らす思い出の雨に消されて終った。
気づけば街に本当に雨が降っていた。彼はじっと空を見上げている。瞳にはネオンサインが炎のように揺れている。彼のそばを何台ものトラックが走り抜ける。私の足音もかき消される。近寄って、肩をたたいた。彼は振り返り、微笑んだ。唇が幽かに動いてなにか四文字を唱えたが、聞き返したときにはもう、彼の唇は私の視界には映っていなかった。やわらかく夜が溶ける。私の片恋は、今、終わりを告げたのだ。

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