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「人それぞれ」ということばの使い方ついて #あわいメモ
先日このようなツイートを拝見しました。
金子みすず本人には悪意はないけれども、発達障害関連の話題になると必ず「みんなちがってみんないい」を引用し、その定義からして非常に政治的・生権力的である論点を脱臭して、舌触りの良い言葉で適当に全体をまとめようとする不誠実な輩にイラつくことが多い。怠惰な無関心を寛容と履き違えるな
— 貴族 (@hasegawa_fusao) January 26, 2022
これめちゃくちゃわかる…って思いました。
過去に、話が長くなったりややこしくなりそうになると、すぐに「まぁ人それぞれだからね!」で話を終えようとする人がいて、それ以来そういう言葉についてすごく考えるようになりました。
私は「人それぞれ」という言葉は、使う人によっては思考放棄である場合もあるだろうと考えています。
少し強い言葉で言うなら、「耳障りのいい言葉で、自分には責任が無くむしろ受け入れているかのように見せかけるのはずるいのではないか」と。
本当に寛容を目指したいなら「関心を持てない人」も許容することになると思うし、関心がないという旨を口にできないのも不健康な状態のように感じます。むしろ、こうした凸凹が存在できないと、寛容な社会とは言えないのではないでしょうか。
だからといって無責任に寛容を謳えば「殺人を許容するのか」という問題も出てくるので、そこには法などのある程度の基準が必要にはなりますが…
しかし現状は、思考を平らに均すことが寛容への一歩みたいな考えが広まってる感じがしていて(関心がない、自分は受け入れられないなどの異論を唱えにくい)。
それはそれである種の全体主義みたいで非常に気持ち悪い…というのが私の思いです。
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この「人それぞれ」という言葉の【使い方】について長年考えていたことは、「あわい」という概念を考えるようになったきっかけの一つでもあります。
まだ論にもなりませんが、現時点でただ一つ言えるのは、「無責任にどっちつかずであること」は「あわい」とは全く違うだろう(むしろ意志が必要ではないか)、ということかなと思っています。
このマガジンで種蒔きすることが、自分なりのあわい観の文章化に繋がることを祈って。
文責:ナツメミオ
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